水というのは不思議だ。どんな形にも変わることができ、どんな色にも染まる。その上、僕たちが生きていくのになくてはならない物質。今日のような冷たい雨ですら考えようによっては慈雨。
柴田南雄さんのエッセイに「『枕草子』と『紫式部日記』」というものがある。
柴田さんは日本人の感性を的確に捉え、古来日本人がどのように「音」に接し、そして古今東西ジャンルを問わず、僕たちがどのように音楽に対峙すべきかのヒントをくれる。
「春はあけぼの」「夏はよる」「秋は夕暮れ」と四季の折々を愛でるが、秋の最後のセンテンスで・・・聴覚に注意を向ける。そこまではすべて目の楽しみ、そのあとはまた冬の生活のつらさで、音には触れていない。
偶然というか『紫式部日記』の冒頭も・・・秋の夜長の物音に耳をすますうち・・・夜半の勤行を知らせる梵鐘につづいて・・・あたりが音で満たされる気配となる。
日本は一般に湿度が高く、諸外国に比べて弦楽器が鳴らないことは彼我の多くの音楽家が経験していることだ。朝鮮半島にくらべても、日本では鳴りが悪いそうである。
しかし、夏の太平洋高気圧が湿った南風を送り込んでいたのが、一転して秋風が吹き、大陸高気圧の支配下に入ってあたりが乾燥してくるとにわかに音の通りがよくなり、風の音が戸をカタカタいわせ、虫の音が障子をふるわせ、遠い水音も地面を伝ってひびいいてくるようになる。
~柴田南雄著「日本の音を聴く」(青土社)P35-36
自然とともに生きていた古人であるがゆえの感覚が、一大叙事詩ともいうべき名作たちを生み出したということ。なるほど、日本人の内側に眠る「侘び寂」の精神の源は、大自然のパーツである水や大気の「音」を芸術的に捉えたことにあるのかも。
水と大気と言えば、村山則子さんの著した「メーテルランクとドビュッシー」なる書物には、日本人に限らず、ヨーロッパ大陸においても昔からそれらが人々に影響を与えてきたことが書かれている。「ペレアスとメリザンド」第1幕第2場、森のシーンにおける村山さんの見解は真に興味深い。
メリザンドはドイツロマン主義、そしてケルト伝説に源泉を求められる水の精としての属性を与えられている。(リュトーはそこにオフィーリアの影を見ている。)
一方で、メリザンドの発する台詞に注目すると、何度も繰り返される発語が目につく。ゴローがメリザンドの出自を知ろうとして投げかける質問に、彼女はただ「遠くから」、「逃げてきた」と繰り返すばかりである。反復される「遠く」(loin)という語の持つ不確実性、限定不可能性、曖昧さは、限られた時空を超えて、見知らぬ世界へとわれわれを誘う。大気的宇宙への拡がりが連想される。
~村山則子著「メーテルランクとドビュッシー」(作品社)P67
この後も的確で奥の深い分析が続くのだが、そういったメリザンドの属性からシューベルトを思った。「水」はこの夭折の作曲家のインスピレーションに貢献した。「大気」は音楽の媒介として機能する(「水の上で歌う」D774などは数多ある彼のリートの中でも最高傑作の部類に入ると僕は思うが、これこそ「水」と「大気」の為せる技なのである)。
そして、「限られた時空を超えて、見知らぬ世界へとわれわれを誘う」という言葉に僕はかの「未完成」交響曲を想像した。
シューベルト:
・交響曲第5番変ロ長調D.485
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団(1960.2.26, 29&3.3録音)
・交響曲第8番ロ短調D.759「未完成」
ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団(1958.3.3録音)(CBS S 61033輸入アナログ盤)
この作品には名演奏が多い。しかし、僕の中で永遠不滅のものは唯一無二。それは、最晩年のブルーノ・ワルターが、ニューヨーク・フィルとともに録音した老練の演奏。
老練と言いながら、実際の音は「火」の噴くような熱いもの。この目には見えない「火」が聴く者の心を焼き尽くす。なるほど、水と空気と火が揃って在るがゆえにワルター盤は永久なんだ(と膝を打った)。
そっと目を閉じてみると、世界がいかに音に満ちているかが分かる。鳥の声、風の音、木々のざわめき・・・。私たちは、地球のなかで、音に包まれている、と言っていいだろう。
~梅津時比古著「フェルメールの音―音楽の彼方にあるものに」(東京書籍)P84
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