
堂々たる威容。それでいて生気溢れる音の流れ。
そこには間違いなく愛があった。
指揮者がこの金の翼を持った天使のことについて、彼の交響曲やディヴェルティメント、合唱曲、協奏曲などに、どれほどのことをさらに付け加えることができるだろう。モーツァルトという謎と奇跡は、たとえ音楽家がその一生を費やして取り組んだとしても、完全に解明されることはない。しかし、彼を理解しようと、彼の音楽とともに毎日過ごすだけで、人生は意義あるものとなるだろう。
モーツァルトを通して、人はより善き人となれるのである。
~フェレンツ・フリッチャイ著/フリードリヒ・ヘルツフェルト編/野口剛夫(訳・編)「伝説の指揮者 フェレンツ・フリッチャイ 自伝・音楽論・讃辞・記録・写真」(アルファベータブックス)P27
モーツァルトへの尋常ならざる愛情が感じとれる。
そして、病床にあった晩年のフリッチャイが、フリードリヒ・ヘルツフェルトに宛てた1960年12月5日付私信には次のようにある。
なぜならば私は自分の活動の目的を、功名心からではなく、天職において「なされなければならぬ」という気持ちからはっきりと見据えているからです。これは、内なる必然です。偉大なる巨匠たち、特にモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ヴェルディそしてバルトークという予言者たちに、私自身がふさわしい奉仕者であると感じられるまで、満足感や幸福感、心の平静などを感じたことはありません。
~同上書P29
まだまだ自身の技術の未熟さを嘆く、死を前にした指揮者の自省の言葉に思わず襟を正したくなる。そして彼はこう書くのだ。
私は今日、神と運命による幸と不幸を受け入れ、また、すべてのことにはそうあらねばならぬ理由があるのだということを、人間としてまた芸術家として知ることができたことに感謝をしております。
~同上書P29
もっと生きたい、健康になりたいと願ったフリッチャイの、(意識してかどうなのか)モーツァルトの命日に宛てた手紙には死への覚悟と同時に、尊敬する作曲家たちへの大いなる愛が刻まれる。
イ長調K.201も、あるいはハ長調K.551「ジュピター」も、どちらかというと音の一粒一粒を大事にした、それでいてフレーズの流れを止めることのない造形で、内側から喜びに溢れる点がいかにもフリッチャイのモーツァルト。しかし、一層素晴らしいのは、祈りのト短調K.550であり、また推進力高い変ホ長調K.543に垣間見るモーツァルトの楽観であろう。

彼のもっとも悲しい、悲劇的な作品、例えばト短調の交響曲(第40番)、《イドメネオ》の三重唱と四重唱、《ティトゥス》、「アダージョとフーガ」(ハ短調)の最初の部分、ト短調の弦楽四重奏曲(第4番)の第1楽章においてすら、常に—遠い彼方からであるとしても—輝く光が感じられるし聴こえてくる。これはある種の幸福の感情である。
~同上書P43-44
モーツァルトへの手放しの愛。フリッチャイの分析が果たして正しいかどうかはこの際横に置く。しかし、彼の指揮するモーツァルトは彼の言葉通り極めて楽観的だ。アダージョとフーガK.546も名演奏。(フリーメイスンのための葬送音楽は別格か)