カルロス・クライバー指揮バイエルン国立管 ベートーヴェン 交響曲第4番変ロ長調作品60(1981.5.3Live)

私は録音を発売するときにはいつもぞっとする気持ちに襲われます。この日のバイエルン州立オーケストラは実に快活かつ大胆で、魂のこもった演奏をしてくれたので、私はまったく満足してリリースする気になりました。
(カルロス・クライバー)
アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下」(音楽之友社)P152

三たび、カルロス・クライバーのベートーヴェンは交響曲第4番変ロ長調作品60。
繰り返し聴けば聴くほど味わい深くなる超名演奏。
吉田秀和さんを感嘆させた、おそらく唯一無二と言っても良い理想的ベートーヴェン。

発売された当初、吉田さんは「複数の批評家が採り上げるだろうから何も私があえて書くこともなかろうと思いつつ、こんな素晴らしいレコードが出たのに書くのを遠慮すると、必ず後から後悔するだろう」という前提を付し、「レコード芸術」誌に次のように書いておられた。

この演奏をきいて、まっさきに頭に浮かんだのは、指揮者のいかにも「格式の正しい、偉大な古典の音楽を演奏するのにふさわしい、態度、心構え」ということである。初めから終わりまで、均整がとれた堂々たる音楽の歩み、足の運びの立派さで一貫して押し通している演奏である一方で、少しも、堅苦しくならず、むしろ、どこをとっても自発性にとんだ動きのなかに、気迫の充実が感じられるのである。
このレコードの『第4交響曲』が、いかにも格調の高い古典性にうらづけられた名作の面影を保っている一方で、ちっとも、すでに何十回、何百回とききなれた古い曲という感じを与えず、いかにも生気溌剌たる清新な音楽としてきこえてくるのである。
これを「名演奏」と呼ばなくて、ほかの何を呼んだらいいのだろう。

「吉田秀和全集14 ディスクの楽しみ」(白水社)P225

確か僕はこのエッセイを読む前にレコードを仕入れて、すでに聴いていたと記憶する。
もはや吉田さんの的確な言葉に感動しつつ、僕はカルロス・クライバーの天才をここで初めて知ったのであった。
これは、前年の夏に亡くなったカール・ベームを記念してのコンサートの記録だが、本人もよほど納得する出来だったのだろう、カルロス・クライバーが手放しでリリースを認めた代物という点が珍しい。

クライバー指揮バイエルン国立管のベートーヴェン第4番&第7番(1982.5.3Live)を聴いて思ふ

ベームは死ぬ前にクライバーのことを賞賛していた、彼は次世代の最も優れた指揮者だと公言していた。しかしそのベームでさえ、クライバーを指揮台に引っ張り出すことはできなかった。
アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下」(音楽之友社)P146-147

もちろんカルロスもベームのことは尊敬していた。
そういう二人の関係が織り成す奇蹟の瞬間を体感できるのがこのコンサートだったのだ。

クライバーは1982年2月に、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのある演奏会に飛び入りで演奏したし、またミュンヘンではカール・ベームに恭順の意を表し、ベームが振る予定だった1982年5月3日の演奏会で、ベートーヴェンの交響曲第4番、第7番を指揮した。彼はこの演奏会をカール・ベームの記念に捧げた。クライバーの心酔者たちは恍惚となり、演奏が終ると果てしないオヴェーションを捧げた。「ミュンヒナー・メルクール」紙は熱狂してこう書いた。クライバーは不当にも低く評価されがちなベートーヴェンの第4番を「威風堂々とした偉大さ」で輝かせ、第7番で「活気に満ちたリズムの饗宴、華麗な響きの放射」を繰り広げ、また「渾身の力を振り絞る全力投球」で聴衆を魅了した。
~同上書P151-152

「不当にも低く評価されがちな」という形容詞が聞き捨てならないが、そういう認識の中にあったミュンヘン界隈にあって、大変な熱狂を生み出したのだということは間違いない。
誰が触れても、本当に熱い、それでいて均整の取れた、抜群の造形。

・ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調作品60
カルロス・クライバー指揮バイエルン国立管弦楽団(1982.5.3Live)

ミュンヘン国立劇場でのライヴ録音。
いつもながらの快速スピードが何と心地良いことか。
全体最適、そして部分最適、おそらく当日のバイエルン国立管弦楽団のメンバーは緊張の中にも心の余裕を醸し、閃光眩いカルロスの棒についていったのだろう(そこにはカール・ベームの存在意義も大きいのかもしれない)。
そして、もう一つ、カルロス・クライバーが好きな(?)チャリティー・コンサートであったという事実がすべてに幸運をもたらしたのだ。

クライバーが演奏会の一部をレコード化するという前向きな決心をしたことには、慈善事業が絡んでいて、収入の一部をプリンツレゲンテン劇場の再開に役立てるという意図もあったからだ。ここは1950年代の初期に彼の父エーリヒ・クライバーが指揮をして歓呼を受けた劇場だった。
~同上書P152

ところで、先の吉田さんのエッセイでの、最後の締めくくりがまた素晴らしい。

そう、大切なことを一つ書き落した。先日、私はかつてロッテ・レーマンの歌ったドイツ歌曲のレコードを新しく入れ直したものをきいて、いろんな点で感慨深いものを覚えたのだが、そのなかで一つ。彼女のすばらしく明瞭なドイツ語の発音のすばらしいこととともに、そこに何ともいえない勢いが良くて、弾みがあって、活力にみなぎっているのに気づいた。こういう力強さというものは、かつてドイツ人のしゃべり方や身ぶり、いや、それ以上に彼らの「心情」の豪気さ、いや雄勁さとでもいったものに、一般的に、みられたものらしく、今でも少し年の多いドイツ人に会うと、彼らのしゃべるドイツ語の力強さ、元気の良さにびっくりすることが少なくない。日本にいても、ドイツ人の歌の先生、たとえばリア・フォン・ヘッサートとかネトケ・レーヴェといった女性に会った経験のある人なら、私のいうところをわかってくれるだろう。あの人たちは、何ごとにつけて、元気よく、活発に、堂々力いっぱい、しゃべったものだ。このしゃべりの生まれる基本と同じところから、彼らの歌の歌い方、ドイツ語の発声やイントネーションも、生まれてきたわけだろう。それが、現代では、ドイツ人のしゃべり方も変り、それと同時に、ドイツ歌曲の歌唱法にも、ほとんど面目を一変したといってもいいくらいのちがい方が出てきた。それに、ドイツ歌曲といっても、現代はドイツ生まれのドイツ人の歌手だけでなく、世界中から名歌手が出てきている有様である。だが、そういうなかで、ロッテ・レーマンの古いレコードなどをきくと、ハッとする。その力強さ、豪気さ、生命力のあふれるような活発な発動、といったものに通じる何かが、このクライバーの演奏にもあって、私はびっくりした。かつてのそれと、同じではなく、もっと洗練され、知的になったものだが、しかし、同根のダイナミズムがあって、それが、ベートーヴェンのこの雄渾のうちに優しさの一端をもつ傑作の名演奏を支えているのである。
「吉田秀和全集14 ディスクの楽しみ」(白水社)P229-230

ロッテ・レーマン ワルター シューマン 歌曲集「女の愛と生涯」作品42(1941.6.24録音)ほか

カルロス・クライバーの第4番が、現代では失われた、古き良きドイツ人の持つ豪気さ、力強さ、そこにさらなる生命力を付加した類い稀なるダイナミズムの極致たる演奏であり、この曲の「雄渾さの内に秘める優しさ」を体現しているという言葉に僕は膝を打つ。

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