ベルリン放送交響合唱団 ブーレーズ指揮ベルリン・フィル ストラヴィンスキー 詩篇交響曲ほか(1996.2録音)

ストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」創作の背景にあったもの。
常に革新という中にあった彼はやはり異才だ。

19世紀が私たちに伝え、私たちがそこから抜け出しただけにいっそうその思想や言語が馴染みのないものになっている時代に開花を見たがままの交響曲形式は、私をほとんど魅了していなかった。自作の『ソナタ』についてと同様に、私は慣例的に採用されてきたさまざまな図式に従うことなく、ひとつの組織全体を創り出したかった。ただし、私の楽曲に、多様な性格を伴った楽曲の連続にすぎない組曲と交響曲が一線を画している楽章順序を取り入れてである。
同時に、私は自分の作品を構成する音素材について考えていた。私の計画では、自分の交響曲は大がかりな対位法的展開をもつはずで、そのためには私の自由になる手段を拡大する必要があった。最終的に私は、合唱と器楽からなるアンサンブルで、それら二つの要素がどちらも相互的に優位を占めることなく同じ重要性をもつようなものに目をつけた。

イーゴリ・ストラヴィンスキー著/笠羽映子訳「私の人生の年代記―ストラヴィンスキー自伝」(未來社)P188

既成概念を壊すとともに、ただそこに新しさを求めたのでなく、すべてがバランスの中にあることを証明しつつ作品として昇華しようとしたのである。だからこそ永遠のベストセラーである聖書からの印象は必然であったし、また心底の信仰というものを音化できる最善の場が交響曲の作曲だったのである。

ストラヴィンスキー自作自演「詩篇交響曲」(1963.3.30録音)ほかを聴いて思ふ ストラヴィンスキー自作自演「詩篇交響曲」(1963.3.30録音)ほかを聴いて思ふ

歌詞について言えば、私はそれを、特に歌われるために作られたテクストのなかに探し求めた。そしてまったく当然のことながら、私の頭に最初に浮かんだアイデアは、詩篇集に助けを求めるということだった。
~同上書P188-189

第一念こそ志の種だ。
ストラヴィンスキーの革新的な思考が現実化したその音楽は、日常の忘却を後押しする代物だった。だからこそストラヴィンスキーは自身の音楽を通じて、人びとを(ある意味)洗脳しようと試みた。「春の祭典」然り、その姿勢は若い頃からずっと変わらなかったものだ。

モントゥー指揮ボストン響 ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」(1951.1.28録音)

大部分の人々が音楽を愛するのは、そこに喜び、苦しみ、悲しみ、自然の喚起、夢の題材あるいはさらに「散文的な生活」の忘却のような感動を見出すのを期待しているからである。彼らは音楽に一種の麻薬を、ある種のドーピングを求めているのだ。
~同上書P190

僕自身を振り返っても、確かにその通りだと思う。

ストラヴィンスキー:
・管楽器のための交響曲
・詩篇交響曲(1948年版)
・3楽章の交響曲
ベルリン放送交響合唱団
ジクルド・ブラウンズ(合唱指揮)
ピエール・ブーレーズ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1996.2録音)

旧約聖書の詩篇第39番、第40番と第150番による。
第39番は、魂の苦悩からの懺悔と神のご加護を求める詩であり、一方、第40番は感謝と祈りを表す詩。
(人生とは懺悔と感謝であるとつくづく思う)
そして、第150番は創造主への讃美であり、森羅万象を生み出した根源エネルギーに対する畏敬である。

僕たちの肉体にはその根源エネルギーが宿っているのである。
それゆえに創造主への讃美は、すなわち讃美とほぼ同義であることを忘れてはならない。
(「ほぼ」とするのは、根源エネルギーが絶対であるのに対して、僕たちは相対の中にまみれ過ぎてしまい、せっかくの絶対を忘却しているからである)

冷静沈着、切れ味鋭いブーレーズの指揮にしては、思念のこもる、美しい演奏だ。
日々、懺悔と感謝。
ベルリン放送交響合唱団の重厚かつ崇高な歌に感動する。

人間そうそう大幅に変わるものではない 人間そうそう大幅に変わるものではない

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