
要はありのままのプーランクを探す旅。
これがまた実に面白い。一作曲家の幼少期から死に至る詳細を、いかにも好事家という視点でひもとく様子に、もっとフランシス・プーランクのことを知りたくなるのである。
音楽好きの人たちに読んでいただきたい良書だ。
1915年の後半、手紙好きのプーランクは、ある企みをもって、当時の有名作曲家8名に宛て手紙をしたためた。内容はすべて「音楽の発展の中でセザール・フランクの果たした役割をどう思いますか」という質問である。プーランクにとって重要なことは、その回答の内容ではなかった。彼の目的は、有名な作曲家から自筆の手紙をもらうことだったのである。
~久野麗「プーランクを探して 20世紀パリの洒脱な巨匠」(春秋社)P18
面識のない有名人に手紙を出す少年の勇気にまずは感動する。
そして、その企図が凡人にはない、天才的発想であることがまた興味深い。
クロード・ドビュッシーより フランシス・プーランク宛書簡(1915年10月23日土曜日)
拝啓 今我々は、古い伝統というものを再び捉え直さなければなりません。その伝統の「美」を我々は置き忘れています。「美」は、古い伝統に必ず含まれているものなのです。しかし、我々がセザール・フランクに敬意を払うということは、彼がフランドルで最も偉大な音楽家の一人であると断言することに他なりません。間違いありませんよ。 敬具
~同上書P19
「温故知新」こそドビュッシーの墓碑銘だろう。
そして、セザール・フランクはその最たる例だというのだ。
僕は、交響曲ニ短調を思った。

カミーユ・サン=サーンスより フランシス・プーランク宛書簡(1915年11月23日)
拝啓 セザール・フランクについて、まるでワーグナーを語るように、その40年間の音楽に関する意見を私が述べるわけですか。フランクは偉大な才能の持ち主でした。だからこそ、この私が、彼をあの地位に推したのです。パリ音楽院のオルガン科教授というポジションは、そもそも私に打診されたものでした。しかし、フランクが生活のためにピアノを教えたりして貴重な時間を無駄にしなくて済むよう、私が芸術担当の役人に頼んで、フランクをその地位につけさせたのです。 敬具
~同上書P19-20
サン=サーンスをして、そのようにさせるものがフランクにはあったのだ。
彼の(堅牢な様式の中で)縦横に全体をひとつにする能力はぴか一だ。
壮大、荘厳なる前奏曲、フーガと変奏曲を思った。

さらに、サティの洒落の効いた、謙虚なセンスに、プーランクが憧れたこともよくわかる。
(しかし、サティの返事は決して肯定的なものではなかった)
エリック・サティより フランシス・プーランク宛書簡(推定1915年)
僕が思いつくことといったら、フランクは壮大な音楽家だったということぐらいです。
彼の作品はぶったまげるほどフランドル的でした、いい意味で。
~同上書P20
良くも悪くも神童フランシスには、最高の贈物だったのだろうと想像する。
ゲルマン的様式にラテン的魂を盛り込んだ、「闘争から勝利へ」「暗から明へ」というベートーヴェン的あり方を示した傑作。何より、すべてを統合せんとする「循環形式」を用いている点が極めて調和的で美しい。
そして、あくまで楽譜に忠実に再現せんとするデュトワの(気張らない)自然体の棒に感銘を受ける。
1980代のシャルル・デュトワ&モントリオール交響楽団の一連の録音の中で頂点を示す1枚だと僕は思う。
