この人には、非現実的というのではないが、相対的な日常性の世界とは次元のちがう、超絶的な世界—あるいはあのバッハからベートーヴェンにいたる、そうしてヴァーグナー、ブラームスからブルックナー、マーラーにおいても、なおその余映を充分に残しているドイツ・オーストリア音楽に独特の、まったくそれ自体で独立した、内面の深くて充溢した世界といえばよいか―、そういう世界に根ざし、そこから生まれてくるものと不断に接触している人間だけがもっているような、一種の時代ばなれした雰囲気が漂っているのである。クレンペラーこそ、マーラーからフルトヴェングラーにいたる、ドイツ・オーストリア系統の指揮者の最後の大家といってよい人だろう、特にシューリヒトのすでにいない今日。
~「吉田秀和全集5 指揮者について」(白水社)P63
何とうまいことをおっしゃるのか!
吉田さんのクレンペラー評に僕は膝を打つ。しかも、この論はクレンペラー存命中の古いものだが、没後半世紀近くを経ても変わることのない評だと思う。彼の指揮する独墺音楽は特別だろう。残された録音を聴く限りにおいても色褪せることのない生気が満ち、一般的に認識される「気の世界」とはまた異なる、永遠の、まるで真理に根ざす楽の音が聴こえてくるのである。何よりその堂々たる構成感においてハイドンの巨大な交響曲群の録音が光る。
例えば、第101番「時計」においては第3楽章メヌエットに表出される喜びの感よ(ハイドンの、いわゆる使用人から解放された安堵感のような大らかさと安心。トリオのフルートによる可憐な旋律が浮き彫りになる瞬間の美しさ)。あるいは、慌てず、急がず、それでいて推進力高い終楽章ヴィヴァーチェの高尚さ。
ちなみに、ヨーゼフ・ハイドンは、その晩年、ヨハン・ペーター・ザロモンの招きにより2度のイギリス旅行を敢行している。目的はザロモンの主宰する演奏会で自身の作品を演奏することだった。演奏会はどの回も大成功だったそうだが、ハイドンにとってそれ以上に素晴らしかったのは2万グルデンもの収入があったことだ(数年前のモーツァルトの宮廷作曲家としての年俸が8百グルデンであったことを考えると、それがいかに巨額だったか)。
決して保守的でない、革新の音楽が堂に響いたその瞬間、ロンドンの聴衆がどれほど歓呼したか。第100番「軍隊」第1楽章序奏アダージョの柔和な音、そして、主部アレグロに移行した瞬間の木管群の囀り(?)の心地良さ。第3楽章メヌエットも重厚に弾け、そのまま終楽章プレストの「非日常的現実」ともいえる遊びの精神が聴く者の魂をくすぐるのだ。これぞ、すべてにおいて造形力がものを言うクレンペラーの真価。