
惨劇に触発されたショスタコーヴィチの心の声。
穿った見方をすればここにも二枚舌はあったのかどうなのか。
社会主義リアリズムと信仰という矛盾を、いつも僕は彼の作品の内に感じる。
バービーヤール、訳して「女たちの谷」—。ショスタコーヴィチがウクライナの首都キエフの中心からほど遠くないこの谷を訪れたのは、1955年のことだった。今日、ウェブ上でも、その悲劇を撮影した写真を数多く目にすることができる。
独ソ戦の火蓋が切られてから3カ月後の1941年9月、キエフ陥落に成功したナチスドイツ軍は、最初の虐殺を遂行した。9月27日、渓谷に近い場所にあるイワン・パヴロフ記念精神病院の患者752名を銃殺に処したのである。彼らは、ナチスの侵攻に抵抗した勢力ではなかった。一日おいて同29日から30日にかけて、ナチスドイツの特別部隊は、地元の協力者、ウクライナ警察の助けを得て、多数のユダヤ人を渓谷に連行し、殺害した。その数、3万3千771人(この数字には、3歳以下の子どもは含まれていない)。これは、45日間に及ぶキエフ包囲戦に勝った軍政長官らの決断で、ドイツ軍への攻撃に対する報復措置として決定されるものであった。
~亀山郁夫「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」(岩波書店)P401
歴史の悲惨な一コマは言語を絶する。
そして、戦争は人間の心を獣化する。
バービーヤールに記念碑はない。
切りたつ崖が荒削りの墓碑のようだ。
わたしは恐ろしい。
わたしは今日、ユダヤの民と
同じ齢を重ねる。
いま、わたしは思う、わたしはユダヤ人だと。
~同上書P403
エフトゥシェンコの詩にインスパイアされたショスタコーヴィチの天才。
音楽の重さ、思想の重みが心にずしりと突き刺さる。
雪解け後に頭角を現し、怒れる世代の代表者として国民的な人気を博しはじめていた詩人のエヴゲニー・エフトゥシェンコが、このバービーヤールを訪れたのは、1961年の9月、19回目の虐殺記念日の直前である。渓谷の丘に立って谷底を見下ろした詩人は、「バービーヤールというあの恐ろしい場所をこの目で見たとき、新しい主題で詩を書かねばならない」と考えた。
~同上書P402-403
恐怖と同情、否、怒りに支配される詩にショスタコーヴィチが付した音楽の沈潜する攻撃性に言葉がない。まして、オレグ・カエターニの解釈の冷徹な、冷静な凄味は他で感じられないものだ。(何という勇気!)
ムラヴィンスキーが指揮を断った初演を受け持ったのはキリル・コンドラシンだった。
(ムラヴィンスキーが断った理由は、作品が声楽を伴ったものだったからかどうなのか)
個人的にはエフトゥシェンコの詩が歌われる第1楽章より、第2楽章以下に大いなるシンパシーを感じる。
相変わらず音楽は沈潜するが、重戦車の如くの爆発力と破壊力が全体を支配する。
例えば、第3楽章「商店にて」における、ソヴィエト社会の厳しい現実を歌う音楽の壮絶さ。
堪らない!
おどけた終楽章「立身」は、ガリレオ・ガリレイを例に、世俗的出世を捨て、人々の呪いを一身に受けながらみずからの信念を貫きとおし、後世に認められることを望む内容だが、そこにこそショスタコーヴィチの生きる真意があったのだと知り、膝を打つ。何て素敵なのだろう。




