ワルター指揮ニューヨーク・フィル モーツァルト 交響曲第41番K.551「ジュピター」(1956.3.5録音)ほか

これでおわかりのように、往々にして純粋な才能の火花をはじめて炎として燃えあがらせる、あの有益な家族の反対というものに、私は生涯恵まれなかったのである。子供の芸術的な素質をふみにじる、無理解で非音楽的な父親がいたわけでもなく、ベルリオーズの場合のように、息子のまえにひざまずいて狂ったように反対し、どうか音楽家風情にはならないでおくれと嘆願し、息子が聞きいれないとみるや、呪いの言葉をあびせかける母親がいたわけでもなかった。
内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏—ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P18

それは裏返せば、負の芸術たる音楽の、創造力という意味においていわば短所になろうところが、ワルターの場合違った。まさに自由に、悠々と育ち、音楽を前向きに職業にすることのできた幸せ。才能にプラスしてそれを育てるべき環境が彼には最初から与えられていたのである。
人生の紆余曲折を経て、ワルターは真にモーツァルトに出逢う。きっかけはやはりオペラだ。

ミュンヒェンでの仕事によって私が獲得した最も強力な芸術上の財産は、モーツァルトに対する自分の理解が深まったということであった。私はかなり長い時間をかけて、やっとあの〈18世紀〉の、ないしは〈ロココ〉の、〈微笑〉の音楽家を、要するにヴィーンにあるティルグナーの記念像の陽気なモーツァルトを、すっかり決定的に放棄し、—〈かわいた古典主義者〉という考えにつられたことは、一度もなかったが—そしてやっと見かけは遊戯的な優雅の背後に、仮借ない真摯と、鋭い性格描写と、戯曲家としての豊かな造形力とを発見し、—ついにモーツァルトを、オペラのシェークスピアと認めるようになったのである。
~同上書P292

良い音楽に触れることだ。そしてまた、何事も体験、体感することだ。ワルターは次のように続ける。

同時に私は、モーツァルトの作品によってわれわれに与えられている、二度とない創造の奇跡をも理解した。すなわち彼にあっては、高貴なものと低俗なもの、善良なものと邪悪なもの、賢明なものと愚劣なものなどのすべてが、戯曲的に真実であり、しかもこれらすべての真実が美になっている、ということであった。
~同上書P292

陰陽相対を超えた、すべてを飲み込む、否、包み込むモーツァルトの魔法。18世紀西欧にあって、東洋思想的な真髄が齢30余りの青年によって「音」をもって語られるのである。これが奇跡と言わずに何と言うのか。

最晩年の傑作、3つの連作交響曲はまさに奇蹟だ。

モーツァルト:
・交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」(1956.3.5録音)
・交響曲第39番変ロ長調K.543(1953.12.21&1956.3.5録音)
ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニック

厚みのある、そして重みのある浪漫モーツァルト。
この「ジュピター」交響曲に初めて触れたとき、高校生の僕は大宇宙の神秘を感じた。雄渾な第1楽章アレグロ・ヴィヴァーチェから奇蹟的な調和の音空間である終楽章モルト・アレグロの一分の隙もない魔法に僕は痺れた。
あるいは、まるで宇宙開闢の歌、暗黒から差す一条の光のように鳴り渡る、変ホ長調交響曲第1楽章序奏アダージョに心が震え、主部アレグロに移り替わる瞬間のカタルシスに涙がこぼれた。もちろん終楽章アレグロの愉悦は他を冠絶する。

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