リストの見るところ、ブルックナーは交響曲という「潜在的熱病」に犯されていた。リストは亡くなる2か月前、ゾンダースハウゼンで『第4番』の冒頭楽章とスケルツォを聴いたが、乱雑に演奏されたホルン主題が気に入らず、第2主題は「オーケストラに編曲されたクレメンティ」のように空疎だと評した。スケルツォ楽章のところである音楽編集者が、ビューロウの「半ば天才、半ば阿呆」というブルックナー評を引き合いに出すと、リストはこう言った。「なるほど。狩か、はたまた雄鳥のコケコッコか、というわけだ」
~田代櫂「アントン・ブルックナー 魂の山嶺」(春秋社)P229-230
もちろんそれは、僕たちが聴き慣れている版での演奏であり、スケルツォも「狩」をモチーフにしたものだ。それにしても当時のブルックナーに関する評価の低さに驚くばかり。
昔、初めて聴いたときは、その支離滅裂さ加減に、音楽を一向に理解できなかった。しかし一方、それこそが天才の為せる業だと思った。想像を超えた創造的発露とその展開に目から鱗。それはまさに、アントン・ブルックナーの第一念の奇蹟だろう。
数年前、すみだトリフォニーホールで聴いたヤングの実演は心底素晴らしかった。
改訂を重ねるごとにスポイルされて行く天才の証。僕は、インスピレーションの湧出がどの瞬間にも散見されることに感激した。あの感動は、それまでになかった、またその後にも体験したことのない異世界のそれだった。
『第4番』初稿は、ブルックナーにしては比較的短期間に書き上げられた。だがそれは冗長で未整理な点も多く、初期様式を打破するための、試行錯誤的作品ともいえる。スケルツォはブルックナーらしい直線的推進力を持たず、何度も執拗にスタートを繰り返すような、奇妙な音楽となっている。78年から80年にかけて改訂に従事したブルックナーは、スケルツォをまったく別の曲に差し替え、第4楽章に著しい変更と短縮を加え、緩徐楽章も短縮した。
~同上書P123
それを進歩、発展とみるか、後退とみるかはこの際、どちらでも良い。
世評がどうであれ、整理の極みを尽くした後年の版よりも格段に刺激的で素晴らしいと今思う。
・ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調WAB104「ロマンティック」(1874年第1稿)
シモーネ・ヤング指揮ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団(2007.12.1-3Live)
第1楽章アレグロ、よく知った旋律の背後に聴こえるオブリガート的な副旋律の妙。主題が劇的な浮き沈みの中にあることがそもそもセンス抜群。そして、第2楽章アンダンテ・クワジ・アレグレットの、それを未整理だというのか、後の版にはない新たな美しい旋律が顔を出す瞬間の恍惚。あるいは、「何度も執拗にスタートを繰り返す」第3楽章スケルツォは決して奇妙な音楽ではなく、聴けば聴くほど野人ブルックナーの妖艶な舞踊の音楽であり、聴いていて溌溂とする。白眉は長い宇宙的規模の(?)終楽章アレグロ・モデラート。ここでは光と闇が錯綜し、解放された光の世界がどんなものなのかを体験させてくれる。特に、第2主題が現われる瞬間の脱力、世界観の突如の変化にはっとさせられる。
ブルックナーは孤独に世を去ったわけでもない。10月14日の葬儀は、ヴィーン市をあげての盛大なものだった。午後1時半、黄銅製の棺が閉じられ、午後3時、長い葬列がカール教会へ向かった。ブルックナーの棺は六頭立ての霊柩車に乗せられ、それに続く馬車には弟イグナツと2人の甥が乗り、その後ろにヴィーン市長と2人の助役、そして議員たちの馬車が続いていた。
午後4時近く、棺はカール教会の鐘の音に迎えられた。駆けつけたフーゴ・ヴォルフは、この葬儀を取り仕切るいずれの団体にも属さず、招待状も持っていなかったために、教会に入ることができなかった。
ブラームスも教会に足を踏み入れなかった。関係者が中に入るようにうながしたが、「もうじき私の棺を担ぐがいい」とつぶやいて立ち去ったという。クララ・シューマンはこの年5月に亡くなり、彼自身も肝臓癌の兆候を示す黄疸にかかっていた。両親がブルックナーの知人であり、当時まだ8歳だったベルンハルト・バウムガルトナーは、ブラームスが柱の陰で涙を流しているのを見たという。ブラームスはこの半年後に世を去った。
~同上書P318
天才たちに囲まれ、天才たちに惜しまれ、ブルックナーは世を去った。
ブルックナーの天才を、当時からわかる人はわかっていたのだと思う。