ブラームスが、最晩年に老荘思想に行き着いていたことに僕は少々驚いた。
彼は、老子がイエス・キリストと同じことを言っていることに吃驚しているが、彼ら2人の聖人が得たものは同じものなのだから当然だ。
「老子が生きていたのは紀元前約500年で、孔子よりはるかに偉大な人物だ。それにも関わらず、孔子ほどには知られていない。孔子が創始した儒教は宗教ではなく、この世の処世訓を示す道徳律だ。イエスのように正直であれと説いており、多くの点から見て素晴らしい。だが、神や死後の世界については何も触れていない。一方で、老子は大変に宗教的な人物だ。肉体の死後の世界や万能の力というものを固く信じており、その力の上で、我々はこの世にあって自分自身を成長させることができる。500年後のイエスと同じく、彼はこの力を霊と呼び、確信を持ってこう語った。『我々は霊を定義できないが、自分のものとすることはできる』」。
「まさにその通り!」ブラームスが声を上げた。「作曲する時はいつも、あの同じ霊を自分のものとしていると感じる。イエスがしばしば言及していたものだ」。
~アーサー・M・エーブル著/吉田幸弘訳「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」(出版館ブック・クラブ)P21
老子の言葉が具体的にどれを指すのかは不明だが、「永遠なる真我」について言及されている点が見逃せない。ただし、あくまで僕の推測だが、それは「道徳経」劈頭を飾る有名な句を指すのではないかと思う。
道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の儌を観る。
此の両者は、同じきに出でて而も名を異にす。同じきにこれを玄と謂い、玄の又玄は衆妙の門なり。
~金谷治「老子―無知無欲のすすめ」(講談社学術文庫)P15
第一念を形にしていくときに、知性と感性と、そして悟性の度合いが問われるのだろうか。ブラームスはおそらくそのいずれにも優れていた。
ブラームスは信仰篤い人だ。
そうした彼の本性を最もわかりやすく表現した作品が、ドイツ・レクイエム。
母の死と、師ロベルト・シューマンの死に衝撃を受けたブラームスが、渾身の力で、そして、神との交信を通じて生み出した名作。
おどろおどろしい、時代がかった、暗澹たる音楽が、そこかしこに轟くが、静かな瞬間も、あるいは動きのある瞬間も、指揮者とオーケストラ、そして声楽陣が一体となって、ブラームスの篤い信仰心を表現しようとしているのが手に取るようにわかる。
楽章が進むにつれ、音楽の渦はまずます強いものに、生き生きとしたものに変化する。ストックホルム・フィルの団員たちが、まるで魔法にかかったように無心にフルトヴェングラーの指揮棒に身と心を委ねているのがわかるのだ。
第6曲「われらここには、とこしえの地なくして」の重量感溢れる魔性、そして、終曲「幸いなるかな、死人のうち、主にありて死ぬるものは」の古びた(?)懐かしさ。
実に音楽が神々しい。何という充実感!
ブラームスはこのように、時代の内容となって、そこに安住したのではなく、時代に対立することによって、現代の危機を体験した最初の人となりました。ここで反動などという言葉をかつぎ出すのは間違いです。彼は近代的人間であり、生涯に沿って近代人であったことに変りありませんでした。しかも彼は全人間的な調和を犠牲にしない近代人、—いや今日我々が見るように、—その調和を見事に発揮しているとき、ことに彼はすぐれた近代人だったのです。
「ブラームスと今日の危機」(1934)
~フルトヴェングラー/芳賀檀訳「音と言葉」(新潮文庫)P109
フルトヴェングラーの指摘通り、ブラームスには美しい調和がある。