ベートーヴェン弦楽四重奏団 ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第7番嬰ヘ短調作品108(1960.9.17Live)ほか

ベートーヴェン弦楽四重奏団が初演したショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲。

1950年代前半、より正確にいうなら1950年から1953年3月のスターリンの死にいたるまでの約3年、ショスタコーヴィチは、内省的音楽とプロパガンダ音楽という二つの極を行きつ戻りつしつつ、徐々に円熟の境地に向かおうとしていた。それらが織りなすコントラストのきわどさを見るかぎり、彼はすでにこれら二つの極を、それぞれに独立した世界として割り切っていたと考えることができる。逆に、芸術家(ないし私人)と職業人(ないし公人)との割り切りは、ことによると彼を精神的に明るく解放した可能性もある。
亀山郁夫「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」(岩波書店)P333-334

「相対」の世界にどっぷりあったショスタコーヴィチの、内省的音楽の最右翼たる弦楽四重奏曲。この時期に生み出されたのは第5番変ロ長調作品92である。

1956年2月、スターリンの死後はじめて開かれた第20回共産党大会で、党第一書記のニキータ・フルシチョフが「秘密の」報告を行った。いわゆる「スターリン批判」である。こうしてスターリンに対する「個人崇拝」がもたらした帰結が暴露されるとともに、多くの罪なき人々の名誉回復が行われた。ただし、この時期にはすでに、主に大テロル時代に粛清されてラーゲリ送りになった囚人たちの帰還がさみだれ式にはじまっており、ショスタコーヴィチもまた積極的に友人たちの解放のために奔走していた。イギリスと日本のスパイ容疑で逮捕され、1940年2月に銃殺されたフセヴォロド・メイエルホリドの名誉回復への尽力がその一例である。
~同上書P361

同年10月に同じくベートーヴェン弦楽四重奏団によって初演されたのが第6番ト長調作品101。

そして、1954年12月に亡くなった最初の妻ニーナに捧げられた弦楽四重奏曲第7番嬰ヘ短調作品108が作曲されたのが1960年だ。(この年、彼はついに共産党入党という運びに巻き込まれる)

さて、ショスタコーヴィチの人生において、誇張ぬきで「悲劇的」と呼べる事件が、雪解けから4年後の1960年に起きる。思うに、1960年はまさに暗転の年だった。この年の3月彼は何を思ったか、亡き妻ニーナの思い出に捧げる弦楽四重奏曲第7番を手がけた。3楽章形式で、なおかつ演奏時間も全体で13分強ときわめて短く、内容的にもごく簡潔な仕上がりである。ニーナが死んで5年、生きていれば50歳。おそらくはそのことをどこかで意識していたにちがいない。
~同上書P378

山あり谷ありこそドミトリー・ショスタコーヴィチの人生だが、何があろうとそれは因果律の中にあるものだ。自らが蒔いた種はみずからが刈り取らなければならない。その原則に基づいて、彼はソヴィエト連邦という国家に(結果的に)貢献せんと、自ら選択して生まれてきたのである。
119回目の誕生日に、だからこそ生み出された数多の名作に浸ろうではないか。

ショスタコーヴィチ:
・弦楽四重奏曲第5番変ロ長調作品92(1952)(1960Live)
・弦楽四重奏曲第6番ト長調作品101(1956)(1956.10.13録音)
・弦楽四重奏曲第7番嬰ヘ短調作品108(1960)(1960.9.17Live)
ベートーヴェン弦楽四重奏団
ドミトリー・ツィガノフ(ヴァイオリン)
ヴァシリー・シリンスキー(ヴァイオリン)
ワディム・ボリソフスキー(ヴィオラ)
セルゲイ・シリンスキー(チェロ)

興味深いのは、ベートーヴェン弦楽四重奏曲の解釈の中に、内省とプロパガンダ的要素の二極が刷り込まれているだろうという事実。それは、先妻ニーナに捧げられた第7番嬰ヘ短調作品108に如実だ。この凝縮された形式の中に、何と瑞々しい心境が刻印されていることか。

ベートーヴェン四重奏団 ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第4番ニ長調作品83(1961録音)ほか

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