ワルター指揮ウィーン・フィル モーツァルト 交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」(1938.1.11録音)ほか

原体験。
少年時代のブルーノ・ワルターは、創造的な音楽家の伝記を読み漁ったという。

ところで私を驚かせ惑わせたのは、ほとんどすべての場合に、彼らの地上の生活の多難な貧しさが、その創造的天分の豊かさと腹だたしい対照を見せていることであった。モーツァルトは平身低頭のうちに、年老いた後援者に再三わずかな金を無心し、11月の或る寒い日には、火の気のない部屋のなかを妻と踊りまわって、からだを暖めようとする。そしてもっと悪いことには、ザルツブルクの大司教から精神的な侮辱を受けるのだが、しかし彼の魂のなかでは彼岸の戦慄が石像の客の音楽となり、ザラストロの「神聖な殿堂」からは人間愛の告知がうたわれ、『鎮魂ミサ曲』の「ラクリモサ」は彼の涙の結晶なのである。地上の《市民的な》生活の逃れがたい凡俗さと、霊感による芸術創造という崇高な出来事とがどのような不幸な結びつきとなって、芸術家の存在に悲劇的な重荷となるのだろうか? 少年期の私が明確にこんな自問をした、などというのではない。しかし伝記は—私の読んだもののなかには、ヤーンの『モーツァルト』とかシュピッタの『バッハ』といった労作があったわけではなく、むしろ逸話めいた少年少女向きの本であったが—いつも芸術上の勝利とならべて、内面の恩寵と外的な困窮との対立を報告していた。しかもそれを読みながら私は、恩寵を受けた人の本性にも《人間的な、あまりにも人間的な》側面があって、凡俗な世界に心をひかれることがまれではないということ、この高尚な創造と低俗な生活との対照は、私自身の魂のなかにある似たような対立と関連していることを感じた。
内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P49

若くして二元世界の対立から生じる葛藤を認識していたワルターの(ある意味)懊悩から生まれた再現芸術は、「人間的な、あまりにも人間的な」要素が犇めいており、だからこそ大衆を魅せることができる力とエネルギーを秘めていたのだろうと思う。まして、90年近く経過したウィーン・フィルとのSP録音にある「典雅さ」と「柔和さ」。これはあの時代だったからこそ表出できた奇蹟なんだとあらためて痛感する。

「煩悩即菩提」という言葉を僕は思った。

モーツァルト:
・交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ」(1936.12.18録音)
・交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」(1938.1.11録音)
・歌劇「にせの花作り女」K.196序曲(1938.1.15録音)
ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

久しぶりに聴いた「ジュピター」交響曲に感激した。
内発する生命力は人を元気にする。何という生きがい、何という希望。
アポロン的性質とディオニュソス的性質が見事に掛け合わさった表現は、ワルターの生涯にわたって錬磨され続けた基本解釈だ。

ワルター指揮コロンビア響 モーツァルト 交響曲第41番K.551「ジュピター」(1960.2録音)ほか  ワルター指揮ニューヨーク・フィル モーツァルト 交響曲第41番K.551「ジュピター」(1956.3.5録音)ほか ワルター指揮ニューヨーク・フィル モーツァルト 交響曲第38番「プラハ」K.504(1954.12.6録音)ほか ワルター&ウィーン・フィルのモーツァルト「プラハ」交響曲を聴いて思ふ ワルター&ウィーン・フィルのモーツァルト「プラハ」交響曲を聴いて思ふ

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