
56歳のボーイト—イタリア人画家とポーランド人伯爵未亡人の息子—は、ミラノ芸術界の主要な人物かつ常連だった。人気の衰えぬオペラ、《メフィストーフェレ》の作曲家。自分自身の作品とヴェルディの《オテッロ》及び《ファルスタッフ》の台本だけでなく、ポンキエッリの《ラ・ジョコンダ》と他の作曲家数人のオペラの台本の作者。ヴェルディ自身の側近。女優エレオノーラ・ドゥーゼの元恋人。そして、彼の若い頃、前衛的芸術運動の支持者だった。ボーイトは早くも1898年の1月に、スカラ座問題に関してトスカニーニに接触しており、そして、2月1日、お気に入りの候補に手紙を書いた。「親愛なるマエストロ(、)貴台が私どもに下さった好意的で非常に望ましいご返答に対し、心から、また、私の同僚に代わって、感謝申し上げます。これは、私どもがより忍耐強く、さらなる不動の信念をもって仕事を続けるよう奨励するものです」。春の間中、ボーイトは複数の理事をトリノに送り、トスカニーニと詳細を話し合わせた。そして、スカラ座理事会はまもなく、アルトゥーロ・トスカニーニが一座の指揮者に任命され、ジューリオ・ガッティ=カサッツァがスカラ座の総支配人になる、と正式に発表することができた。
~ハーヴィー・サックス/神澤俊介訳「トスカニーニ 良心の音楽家(下)」(アルファベータブックス)P150-151
プロローグのみとはいえ、トスカニーニの棒による歌劇「メフィストーフェレ」抜粋こそ、僕のボーイト開眼のきっかけだった。音楽の壮大さ、美しさ、完全主義者アリーゴ・ボーイトの完璧な音楽がトスカニーニによって再生される様子が、おそらく演奏会形式による録音から如実に伝わるのである。
ボーイトとトスカニーニの共同作業、スカラ座の指揮者に就任した巨匠の背後にはボーイトの存在が間違いなくあったのだ。
そして、ヴェルディ作「第一回十字軍のロンバルディア人」第3幕の三重奏の、火傷しそうなくらいの熱い演奏に、トスカニーニのヴェルディへの賞讃の尊敬の大きさを思う。
もちろん歌劇「リゴレット」第4幕の推進力、壮大さ、リアリティなど、古い録音を超えて迫る音楽性に言葉がない。
(戦時中のニューヨークはマディソン・スクウェア・ガーデンでの実況録音)
トスカニーニの創造する音楽にはいつも「歌」がある。
歌手陣の力量はもちろん素晴らしいが、管弦楽そのものが歌手以上に「歌」うのである。
(1926年)9月4日、3ヶ月以上の上演無しの後、彼は作曲家の没後25周年を—半年以上遅れて—記念するため、ブッセートの小さなヴェルディ劇場で《ファルスタッフ》を指揮した。1913年にヴェルディ生誕百周年のために彼が行なったように、今再びトスカニーニは、主にスカラ座の演奏者から成る縮小された50名のオーケストラと仕事をした。キャストには、題名役のスタービレ、アリーチェ役としてスペイン人ソプラノ歌手のメルセデス・ヨパルト、フォード役としてエルネスト・バディーニ、クイックリ夫人役として23歳で将来スカラ座の主力となるエベ・スティニャーニが含まれた。彼はまた、ベニアミーノ・ジッリを伯爵役として《リゴレット》の最終幕も何回か上演したかったが、ジッリはスカラ座経営陣に、彼がマエストロ トスカニーニへの好意で3回だけ上演に加わると答えていた。「それで私は[スカンディアーニに]、『私は誰からの好意も要らないので、この手紙に返事しなくて良い』といった」と、トスカニーニは多年の後回想している。「[それは]ヴェルディと《リゴレット》[のためだ]、それはトスカニーニではない」。
~同上書P529-530
こういうエピソードを読むと、いかにトスカニーニが音楽そのものを、そしてそれを創造した作曲家を第一としていたかということがよくわかる。
彼はまさに音楽そのものへの奉仕者だったのだ。
(だからこそトスカニーニのヴェルディは不滅なのである)
