フィッシャー=ディースカウ タルヴェラ ニルソン ベーム指揮プラハ国立劇場管 モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527(1967.2&3録音)

ゼーレン・キルケゴールの誤りは、言語を、「具象」という意味においてすべての筆頭に置いたことだと僕は思う(しかし、彼の生きた18世紀は言葉がすべてだったという意味で仕方ないことなのだが)。言葉こそ本来曖昧で人を惑わすツールはない。人は言語によって迷い、言語によって縛られているのだと言っても過言ではないだろう。

モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」に魅せられ、彼は小論を認めた。

モーツァルトは『ドン・ジョヴァンニ』をもって、名と作品が永遠によって記憶されるがゆえに時間によって忘れられないような少数の人びとの小さな不滅の群れに加わった。そして、この群れにひとたび加われば、無限の高さに立つのだからいわば同じ高さに立っているので、もはや最上位に立つか最下位に立つかはどうでもいい問題であるにちがいなく、また、ここで最上位か最下位かについて争うのは、堅信式のおりに祭壇のまえの席を争うのと同じく子供っぽいことであるにちがいない。それにもかかわらず私はいまだにあまりにも子供であり、あるいはむしろ、私は小娘のようにモーツァルトに恋着しているので、どんな犠牲を払っても彼を最上位にたてずにはいられない。
ゼーレン・キルケゴール/浅井真男訳「ドン・ジョヴァンニ 音楽的エロスについて」(白水ブックス)P10

本人の弁通り、モーツァルトへの何という賞讃!
確かに「ドン・ジョヴァンニ」は永遠だ。大手を振るい、このオペラこそが最高位に立つのだと宣言するキルケゴールの審美眼。絶対的音楽理念という断言に首肯する。

音楽が伴奏としてそえられているのでなく、理念の啓示のなかに同時に音楽自体の最も内奥の本質が啓示されているほどに、絶対的に音楽的な理念をもっている、とわれわれが言いうるような作品はただひとつなのである。それゆえ、モーツァルトは彼の『ドン・ジョヴァンニ』をもって、あの不滅の人びとのあいだで最高位に立つのである。
~同上書P28

そして、音楽が官能的でなければならない旨を彼はこう謳う。俗物をこれほどまでに崇高に音によって高めた音楽家が他にあろうか。

音楽はデモーニッシュなものである。音楽はエロス的で感性的な天才性のなかにその絶対的な対象をもつ。だからといって、音楽が他のものはなにも表現しえないという意味でないことは当たり前であるが、ただこの対象が音楽の本来の対象だという意味である。
~同上書P42

エロスはすなわちタナトス(死)と同意であり、その意味で、キルケゴールの理想を音化したのは唯一ヴィルヘルム・フルトヴェングラーだと僕は思う。死と同意のエロスを表現できた「ドン・ジョヴァンニ」最高の演奏がフルトヴェングラー盤なのである。しかしながら、モーツァルトの音楽の器は底なしであり、一方、まったく逆の、すなわち生の側面に光を当てた解釈という意味で最良は、カール・ベームが残した録音だ。

・モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(ドン・ジョヴァンニ、バリトン)
マルッティ・タルヴェラ(騎士長、バス)
ビルギット・ニルソン(ドンナ・アンナ、ソプラノ)
ペーター・シュライアー(ドン・オッターヴィオ、テノール)
マルティナ・アーロヨ(ドンナ・エルヴィーラ、ソプラノ)
エツィオ・フラジェッロ(レポレッロ、バス)
アルフレード・マリオッティ(マゼット、バス)
レリ・グリスト(ツェルリーナ、ソプラノ)
プラハ・フィルハーモニー合唱団(合唱指揮:ヨーゼフ・ヴェサルカ)
カール・ベーム指揮プラハ国立劇場管弦楽団(1967.2&3録音)

1787年10月29日、プラハ国民劇場にて初演。「ドン・ジョヴァンニ」は熱狂的に迎えられ、大成功を収めた。ベームの最初の録音は、初演に所縁のあるオーケストラとのものだ。しかも、ドン・ジョヴァンニにバリトンのフィッシャー=ディースカウを起用し、ドンナ・アンナがニルソンだという、怖いもの知らず(笑)、驚くべき布陣の演奏ゆえ、実に緊張感がある。しかしながら、キルケゴールの求める「デモーニッシュさ」はスポイルされていると言って良い。これほど明るく、清澄な「ドン・ジョヴァンニ」は他になかろう。

ぼくの手紙をお受け取りのことと思う。10月29日にぼくのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」が上演された。しかも大変な喝采を受けて。昨日4回目の(しかも収入はぼくがもらえる)上演がなされた。12日か13日にここを立とうと考えている。帰ったらすぐに例のアーリアをすぐ歌えるように、お渡ししよう—だが、これはぼくたち二人だけの話。ぼくは親しい友人(特にブリーディと君)が、たったひと晩でもここへ来て、ぼくの喜びを分かちあってくれたら、どんなに嬉しいことだろうと思う! もしかしたらヴィーンでもやはり上演されるかもしれない。それを願っている。ここの人たちは、いろいろ手を尽くしてぼくを説得し、あと数ヵ月もここに滞在して、オペラをもう1曲書かせようとする。しかしその申し出は、ぼくにとってどんなに嬉しいことにしろ、引き受けるわけにはいかない。
(1787年11月4日付、フォン・ジャカン宛)
柴田治三郎編訳「モーツァルトの手紙(下)」(岩波文庫)P133-134

モーツァルトの欣喜雀躍。作曲家の正直な思いを音化したものだと言えば、ベームの解釈は妥当だ。ディースカウもニルソンも主体を抑え、あくまで客観的に役柄を演じようとする。

プラハは今も《ドン・ジョヴァンニ》を誇っている。1787年にこのオペラを初演したのはプラハだった。でもそれだけじゃない。プラハの誇りは、モーツァルトのオペラに熱狂し、このオペラの誕生を促したことにある。
1786年12月、プラハで《フィガロの結婚》が上演され、大成功を収めた。前作《フィガロ》はウィーンでも成功したのだが、初演から7ヵ月後のプラハでの成功はそれ以上だった。プラハは《フィガロ》に熱狂したのだった。3年前の《後宮からの逃走》も評判がよかったのだけれど、《フィガロ》は空前のブームを巻き起こした。人々はこのオペラに浮かれ、アリアを口ずさみ、作曲家モーツァルトの人気が上がった。ウィーンではしかし人気凋落の兆しが見え始めていた頃だった。

スタンダード・オペラ鑑賞ブック③「ドイツ・オペラ上」(音楽之友社)P53

絶頂とどん底の両方を、短期間で味わうことになったモーツァルトの光と翳。
何にせよ「ドン・ジョヴァンニ」は傑作だ。

ドン・ジョヴァンニのこの力、この全能、この生には、ただ音楽しか表現を与えることはできない。そして私はこれを言い表すのに、それは生命のあふれる活気だ、という以外の述語を知らない。
ゼーレン・キルケゴール/浅井真男訳「ドン・ジョヴァンニ 音楽的エロスについて」(白水ブックス)P111

死を以て始まるオペラは、実に生を謳歌するための、生の源泉を普く伝えんとする希望のオペラとして僕たちの前に現出する。カール・ベームは分かっていたのだと思う。

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