
トスカニーニがブゾーニと知り合いになった1911年は、20世紀音楽史上で劇的な年だった。イーゴリ・ストラヴィンスキーが《ペトルーシュカ》を完成し、《春の祭典》の大部分を仕上げた。ベラ・バルトークが《青ひげ公の城》を作曲し、アルノルト・シェーンベルクが6つのピアノ小品を作曲し、そして、アントン・ヴェーベルンが管弦楽のための5つの小品作品10に取り組み始めた。これらの作曲家は、同時代の画家、彫刻家、詩人がそれぞれの芸術に大変革をもたらしていたのとほぼ同じように、欧州の芸術音楽のまさに基礎を揺るがしていた。トスカニーニが10歳か20歳若ければ、ドビュッシーやシュトラウスの急進的な音楽を数年前に受け入れたのと全く同じように、新しいレパートリーへと乗り出していたかも知れない。しかし、彼は今や40歳代半ばであり、ストラヴィンスキー、バルトーク、シェーンベルク及びヴェーベルンが子供だった時以来、プロの指揮者だった。彼の嗜好は、中年期に固まりつつあった。当時のその作品を彼が素晴らしいと見なしたストラヴィンスキーを除いて、トスカニーニは若い急進派を拒絶した。彼は長年新しい音楽を演目に組み入れ続けたが、ごく僅かを除いて、演奏した新しい音楽は保守的なものだった。
~ハーヴィー・サックス/神澤俊介訳「トスカニーニ 良心の音楽家(下)」(アルファベータブックス)P340
ゲルギエフの「青ひげ公の城」を聴いて思ふ
ブーレーズ指揮ベルリン・フィルのヴェーベルン変奏曲(1994.9録音)ほかを聴いて思ふ 保守でも革新でもそんなことはどちらでも良い。
陰陽二元の世界にあって、相反する2つがバランス良く存在するのは当然のことであり、すべてはその人の役割に過ぎないのだから。人は一人一人自分の役割と使命を果たせばそれで良いのだ。
歴史に「たられば」は禁句ゆえ、「トスカニーニがもし」というのも論外。
少なくともストラヴィンスキーのことは大いに認め、ショスタコーヴィチやプロコフィエフについては受け入れていたようだからそれで良し。ソ連の巨匠の各々最初の交響曲がトスカニーニの指揮で聴けるという幸せ。すべてが溌剌たる高鳴りを示す19世紀ロシア、20世紀ソヴィエト音楽の妙。
プロコフィエフの交響曲はハイドン風ということだが、その響きは明らかに20世紀的であり、独自のセンスを感じさせるトスカニーニの棒が、それこそ保守的な方法で音楽を創り出している点が興味深い。
素晴らしいのはショスタコーヴィチ。
ブルーノ・ワルターにこの作品の録音が残されていないことが実に残念だが、おそらくそれを凌駕する力とエネルギーに溢れる演奏だ。
(そもそもワルターとトスカニーニとでは表現スタイルがまったく異なるので比較することはナンセンスなのだが)
(しかし、ワルターもライヴでは内燃する激しいパッションに染まる瞬間が多々あるので、トスカニーニに負けず劣らず劇的な音楽になったかもしれないが)
そして、何と言ってもトスカニーニの愛好する「ペトルーシュカ」の奇蹟!
第1場と第4場の抜粋、中でも「ロシアの舞踊」の喜び、この中庸なる気概。
話を舞台稽古に戻す。いつもの通り問題は山積みだった。まずは音楽。リハーサル・ピアノとオーケストラで聴くのとでは音がまるで違う。踊り手はまごつくばかりだ。舞台は出演者でいっぱいなのに、真っ暗闇の中で舞台転換をしなくてはならない。これをさらに面倒にするのが、ストラヴィンスキーの音楽。音楽の都合で、舞台前のプロンプト・ボックスには4組の大きなドラムのセットが置かれ、舞台転換の間ずっと鳴り続けている。そのうえストラヴィンスキーとフォーキンは、音楽のテンポのことで常に言い争いが絶えない。踊り手は、舞台の上の祭りの飾りものが多すぎて、動く場所がないと文句を言う。また、ブノワがいないので照明プランがはっきりしない。ひと言でいえば、これはいつもの舞台稽古の問題の域を超えている。だが、この混乱から奇跡のように秩序が生まれた。「ペトルーシュカ」は大成功を収めロシア・バレエの栄光に貢献した。そしてディアギレフ・バレエ団が終末を迎えるまで、そのレパートリーに残った。
~セルゲイ・グリゴリエフ著/薄井憲二監訳/森瑠依子ほか訳「ディアギレフ・バレエ年代記1909-1929」(平凡社)P60-61
スキャンダルを起こすストラヴィンスキーの音楽にある本質は秩序だった。
それは、普遍性を獲得した音楽に共通するものだ。
トスカニーニの「ペトルーシュカ」には愛がある。
