野村克也氏の講演会を聴いて・・・

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東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督である野村克也氏の講演会というものを初めて聴いたが、テレビで観るあのままの朴訥な雰囲気とぼやき、それに長年のご経験に基づく嫌味のない正直なお話が滅法面白かった。僕はプロ野球に関しては人並み程度の知識しか持ち合わせないが、古くからのファンも驚くような球界の裏話(ひょっとすると野球好きの方にとっては常識なのかもしれないが)満載で、2時間近くの時間があっという間に過ぎた。野村氏は特に話し上手、プレゼンテーション上手というわけでもないのだが、お人柄も含めともかくぐいぐいと引き込まれる魅力がある。楽天球団が今年低迷している理由には、やっぱり監督交代が原因しているのだろうと素人ながら考えさせられた。 

最後の質問コーナーで、聴衆の一人が「田中将大投手への想いについて教えて欲しい」という質問をされ、野村氏は「田中マー君に関しては少々甘やかし過ぎたと思う」とひとこと言った後、次のようなことを述べられた。

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「この親にしてこの子あり」という言い回しがあるが、ある時マー君の実家がある大阪から両親が遠く仙台まで息子の試合を観戦しに来た日があった。その事実を知らされたのは試合が終わった後マネージャーから。「普通は可愛い息子が試合に出る時は、試合の前でも後でも親は直接私のところに挨拶に来るものなんじゃないのか??親はうんともすんとも言ってこない」。

時代の風潮なのか、それとも私の人間性に問題があるのか、今の親の考えること、というか常識はよくわからんとおっしゃっていた。とはいえ、時代のせいにするのでなく、結局は私の問題なのですと謙虚に言っておられたことが一層野村氏の人間的魅力に花を添えた。さすがは名監督、何やかんや言われても「人間の器」が違う。

11月の愛知とし子presentsレクチャーコンサート(仮題)のプログラムがほぼ決まったが、J.S.バッハのパルティータから1曲採り上げたいということになり、早速いくつかの音盤を聴き比べた。

J.S.バッハ:パルティータ第5番ト長調BWV829
クラウディオ・アラウ(ピアノ)

グレン・グールド(ピアノ)
リチャード・グード(ピアノ)

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1731年、記念すべき作品1として出版されたこの作品集は、「愛好者の心情を慰めるためのクラヴィーア用の曲」というタイトルを持つ。特に第5番などはリサイタ
ルの幕開けに相応しい軽快な明るさをもつ音楽が連続するが、ピアニストによってこうも表現が違うかという発見も大いにあり、聴き比べだけで相当に面白い。

最晩年のアラウの演奏は、ひとつひとつゆっくりと歩みを運ぶように歌われる。しかし、それが決して鈍重にはならない。これは単なる舞曲ではない。呼吸深く、沈思黙考するバッハは敬虔な祈りに満ちている。

一方、グールドは「挑戦」だ。「ゴルトベルク変奏曲」で鮮烈なデビューを果たした彼らしく、一切の反復を省き、いとも軽やかに、滑るように駆け抜ける。そして、グードの演奏はというと、これほどチャーミングでありながら中庸な演奏はほかにあるのかと思わせるほど。何はともあれ「謙虚」なのだ。そこに「エゴ」がまったく反映されない、バッハだけを感じさせる、そういう演奏・・・。

さて、どれが好みか?残念ながら答は出ない。その時々、状況、気分によって変わるから。J.S.バッハの音楽は懐が深い。


4 COMMENTS

雅之

おはようございます。
今朝は、遠い30年くらい前の高校時代に読んで、私がそれまでもよく弾いたり耳にしていたものの抹香くさく感じて決して好きではなかったバッハの音楽に開眼するきっかけになった、故 中河原理さんの思い出深い名著の中にある名言をご紹介します。その意味するところ、高校時代と今とではまるで重さが違って響きます。人生経験を重ねた今読み返すからこそ、とても胸に沁みるのです。岡本さんにぜひ読んでいただきたいと思いました。
「音楽を聴くということ ―作曲家30人の作品と魅力-」(共同通信社 昭和54年10月20日 第一刷発行 絶版)
〈バッハ―――その聖なる日常性〉より後半部分 
・・・・・・結果論的に私にいえるのは、長調と短調による西洋音楽の音階にはこういうものを表現するだけの力が潜在的にあったこと、そしてバッハというひとがいてそれを発掘し、こういうものを作ったこと、そしてそれを事実として黙って認めるしかないこと。このくらいのものである。ほかに理由を探してみても堂々めぐりになるばかりで、あまり実はないのではないだろうか。芸術には根本のところで説明のつかないものが残るのは人間と同じことではないだろうか。というより、きれいな説明がついたらそれはかえって疑わしいとみるのがむしろまっとうなのではあるまいか。そうしたバッハの音楽の素晴らしさは何も「マタイ受難曲」をもってこなくても、二声のインヴェンションの第一曲にも、いや平均律第一集の前奏曲第一番にさえ余すところなく現れていると思う。フィギュレイションと旋律のかかわり、その幾何学的な規則性、緊張と弛緩の見事な交代、そして音が動き移ってゆくことの音楽的意義の深さ、音と音が作る関係の悦び。ここには音楽というものの精髄が余すところなく簡潔に示されている。この技術的には最もやさしい曲を最も音楽的に弾けるひとが本当の音楽家だといったら誇張に過ぎるだろうか。
 
 バッハの音楽の表現の本質ということになれば、それは何より人間的ということに尽きるように私には思われる。さきに書いた表現の緊密、求心性、音と音との間の引合いの強さというのは、ひとくちでいえば有機性である。バッハほど有機的な音楽を書いたひとはなく、そしてこの世で最も高度に有機的なものといえば、まず人間をおいてないといっていいのではないだろうか。バッハの音楽は「人間的な、あまりにも人間的な」音楽なのである。
 
 比喩でなく実際としても私にはバッハの音楽は人間そのもののように感じられる。バッハの音楽はこのうえなく生きている。その表情にはぬくもりがあり、血が循環し、脈うち、肉がうづき、体温も感じられる。近ごろはやりの「スキンシップ」といえばいささか卑俗な言葉に過ぎるかもしれないが、バッハの音楽にはそれがある。バッハは限りなく偉大でありながら、同時に親しい友人、家族のように限りない親しみの情をもって語り合い、抱きしめることができるように思う。私にいわせればバッハに惹かれるといのは人間に惹かれることであり、バッハに惹かれるということは人間であることのあかしなのである。生きることと同じで、バッハを聴き飽きることはありそうもない。
 
 人間、人間と連呼したが、芸術作品はみな人間である。バッハはその人間のどういった側面を代表しているだろうか。それは日常における人間ではないだろうか。ほかの作曲家との対比でいえば、ベートーヴェンは劇的にして英雄的な人間であり、シューマンは夢みる人間であり、ブルックナーは自然に憩う人間であろう。ブラームスは反省癖の強い人間であり、マーラーは病める人間である。みな人間として、なにがしか特殊な状況下にある。なるほど、みなそれぞれにかけがえのない独自な魅力を備えているけれども、そういうひとたちと始終交わりたいと思わない。
 
 こうした作曲家にくらべて、はるかにつき合いやすいのがバッハである。それはバッハが同じ人間でも、日常における人間像を代表しているかに私には聴こえるからである。何のかのといって、結局、人間にとっていちばん大切なのは日常なのであろう。むろんそこには実にさまざまなことが降りかかって来て、これに耐え、切り抜けてゆくことも重要なことには違いない。しかしそうしたことはいってみれば生涯のうちの「分子」のようなものであり、その「分母」にあたるのは毎日毎日の繰返しからなる日常なのではないだろうか。堅実で、ごまかしや取りこぼしのない、篤実な日常こそが人生の本体なのだろうと思う。
 
 そういう意味からも、バッハの音楽は私にとってまさに日常の糧であって、音楽という芸術の座標軸の交点に座を占めている。むろん現実のバッハは日々の繰返しを充実させることに満足を見出すタイプの人間ではなかったらしいが、それはさしあたり問題ではない。私のいうのはあくまでも表現の質のことなのだから。バッハの音楽は、言葉の最も深い意味での日常性に根ざしながらも、普遍的かつ聖なるものに高められたものとして私を突き動かしてやまないのである。
ということで、今朝はごく日常によく聴く愛聴盤より
イギリス組曲第2番、パルティータ第2番、トッカータ アルゲリッチ(ピアノ)
http://www.hmv.co.jp/product/detail/590160
無伴奏チェロ組曲全曲(第1番~第6番) ロストロポーヴィチ(チェロ)
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2728139
岡本さんご紹介の名盤も、この秋に、改めてじっくり聴いてみたいです。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
ご紹介の中河原理氏の書籍は未読でした。
しかし、雅之さんをバッハに導いただけあって、なるほどと納得させられる文章ですね。
あまりに人間的で、しかも限りなく「日常性」を代表する音楽だと言われればそのとおりだと思います。
特に、
「バッハの音楽は、言葉の最も深い意味での日常性に根ざしながらも、普遍的かつ聖なるものに高められたものとして私を突き動かしてやまないのである。」
というフレーズが気に入りました。
ご紹介の名盤たちもまたあらためて聴いてみたいと思いました。
http://opus-3.net/blog/archives/2008/02/post-262/
http://opus-3.net/blog/archives/2008/02/post-259/

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畑山千恵子

グールドのバッハも聴くようになると、いろいろな人たちのバッハを聴いていくようになりました。シフなど、いろいろCDを買ったりして聴いています。
たしかにグールドは見事なものの、どこか観念的ではないかと感じることがあります。平均律、パルティータではギーゼキングのものがありまして、こちらは味わい深いバッハです。他にも、若いマルティン・シュタットフェルトもみずみずしいにせよ、温かみのある演奏ですね。エドヴィン・フィッシャーも買って、聴いてみたいですね。
今、ヘレン・メサロスのグールド伝の翻訳を進めていても、出版社探しが大変です。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
こんにちわ。
ギーゼキングのは未聴です。シュタットフェルトはおっしゃるとおりだと思います。
出版社を探すのも大変なことですね。グールド伝、出版されることを祈願しております。

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