スウィトナー指揮シュターツカペレ・ベルリンのブラームス第1番(1988.6.13Live)を聴いて思ふ

ドイツの伝統に根ざす、低音のよく効いた、分厚い安定した響き。
弦がよく鳴り、管はいぶし銀の音調を醸す。
昔、幾度かNHKホールで聴いた、いかにもスウィトナーらしい奇を衒わない重厚な音楽作り。ここには音楽をする喜びと、音楽を聴く安心がある。

終演後の歓声の弾け具合いに、この日のサントリーホールの聴衆は、随分感激したのだと見える。
ブラームスの交響曲第1番ハ短調。何て柔らかく、またふくよかなのだろう。
テンポは揺れ、それでいて不自然さの欠片もなく、すべてが音楽的で、理に適った運び。特に、終楽章主部ピウ・アンダンテ—アレグロ・ノン・トロッポ・マ・コン・ブリオの激しくも堂に入る素晴らしさ。終始微動だにしない音の連なりに、それだけで懐かしい青春の思い出が蘇るようで思わず感化される。当時の僕は、残念ながらそこまでのものを享受し切れていなかった。あらためて残された音源を聴き、オトマール・スウィトナーの凄さを再確認する。

・モーツァルト:歌劇「魔笛」序曲K.620
・ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68
オトマール・スウィトナー指揮シュターツカペレ・ベルリン(1988.6.13Live)

1970年の、シュターツカペレ・ドレスデンとの名盤を髣髴とさせる、否、それ以上に生気溢れる「魔笛」序曲は、スウィトナーの真骨頂。

実際、夜の女王が《悪》を表しているなどとはどこにも言われていない。《夜》は闇であるが、それ自体悪いことではない。しかし、それは《昼》と対立する。そしてその争いが激しくなったときには、どちらに味方をしたらよいか作者たちはよくわきまえている。「魔笛」の本質は、《男性界》と《女性界》という二つの世界の争いを象徴的に図解してみせることにある。その争いは、所定の清め式を受けた後に《夫婦の秘儀》のなかで新たに完全に結ばれることによって解決されるだろう。
ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳「魔笛—秘教オペラ」(白水社)P109

見事に真意を抉るシャイエの言葉に、初めて読んだ当時僕は膝を打った。
対立する世界に平和をもたらすのは、思考を超えることなんだと既にモーツァルトは悟っていたようだ。

序曲冒頭、5つの和音から光輝満ち、ただならぬ温かさを放つスウィトナーの棒。

《数》の計数学、あるいは神秘学では、(《5の組合わせ》、あるいは《5》の特性は)・・・子宝を授ける縁結びの女神であるアフロディテー、つまり多産の「愛の女神」の数である《ガモス》(Gamos—ギリシャ語で〈結婚〉、あるいは〈雌雄合体〉といった意味がある)ともいい、生殖の抽象的な原型を表わしている。事実、《5》という数は、女性、子宮、分裂繁殖を示す最初の偶数(2、二つ組)と(男性、非対称)を示す最初の完全な奇数(3、三つ組)とが結合したものである。
とすると《5》は、生殖原理からすれば女性を表わしていることになるが、単独の女性は《2》に属するのであるから、「結婚」した女性を表わしていることになる。多産の女性を表わす《5》の概念から、手ほどきを受けた女性を表わす《5》の概念へと意味が転化したのかもしれない。
~同上書P102

かなりこじ付けの解釈だとも思えるが、「魔笛」を秘教オペラと捉えるなら、納得のゆく推論だ。まさに200数十年後を予言してのモーツァルトの傑作(本人はそんなつもりはまったくなかったかもしれないが)の名演奏。痺れる。

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