
トスカニーニの音楽作りに通底するものは何だったのか?
それは老ジュゼッペ・ヴェルディの教えによるものだった。
(1913年)10月下旬、トスカニーニは、ヴェルディの新たに出版された書簡集、『イ・コピアレッテレ』の美しく製本されたものを受け取った。「私のとても親愛なるアルトゥーロ・トスカニーニへ、彼がブッセートとスカラ座に於ける《ファルスタッフ》で私に与えた計り知れない知的喜びを記念して—アッリーゴ・ボーイト」という献辞が添えられていた。トスカニーニはその書簡を注意深く読み、その中に幾つか注釈を付けた。例えば、彼は、1871年4月11日付ヴェルディのジューリオ・リコルディ宛て手紙の以下記述の横に、「順守すべき」と書いた。「指揮者の予言力について・・・そしてあらゆる演奏で創作することについて・・・これは大げさと見せかけにつながる考え方である」。そして、トスカニーニは、同じ手紙の以下の抜粋の大部分に下線を引いた。
私は一人の創作者しか欲しない。そして、私は、書いてあるものが単純かつ正確に演奏されれば満足する。(略)貴君はかつて、(指揮者のアンジェロ・)マリアーニが金管をト調のフォルティッシモで持ち込んで《運命の力》の序曲から得た効果に、称賛して言及した。それでは、私はこの効果を不可とする。あの金管(楽器)は、私の考えによれば“メッザ・ヴォーチェ”(半分の声)で、修道士の宗教的詠唱を表現しなければならなかったし、それだけを表現することができた。マリアーニの「フォルティッシモ」はその特徴を全く変え、あの部分は、劇のテーマとは無関係の戦争のファンファーレになる。劇の中で、戦争の部分は完全に挿話的である。そして、そこで我々は大げさと見せかけへの道を歩んでいる。
~ハーヴィー・サックス/神澤俊介訳「トスカニーニ 良心の音楽家(下)」(アルファベータブックス)P364
1913年は、ヴェルディ生誕100周年の年。
とにかく勝手な再創造は避け、指揮者たるもの楽譜に書かれたとおりに音楽を再生せよとヴェルディは言うのである。トスカニーニが下線を引いたその箇所こそ、彼にとっての音楽創造の原理であり、原則だったのだ。
ヴェルディ最後の傑作歌劇「ファルスタッフ」にまつわるトスカニーニの数々のエピソードが面白い。
前年に彼は、生誕100年の作曲家ヴェルディを追悼するための珍しい計画を策定した。イタリアの主要歌劇場で一つの制作もしくは一連の制作に取り掛かる代わりに、彼は、ヴェルディ自身がかれの生まれ故郷、ブッセートに建てた小さな劇場で—無報酬で—指揮することにした。トスカニーニは、ヴェルディが20年前に、《ファルスタッフ》を完成したらスカラ座よりもむしろサンターガタの彼の別荘で上演すると、冗談を言っていたことを覚えていた。「私は、サンターガタではなくブッセートで、と考えた」と、トスカニーニは回想している。なぜなら「小さな礼拝堂もしくはローマのサン・ピエトロ大聖堂で唱える祈りは同じ価値がある」からだ。
~同上書P361
ヴェルディとの数々の想い出を、音に載せるトスカニーニのスキル。
そして、あえてヴェルディの出身地たるブッセートでの上演を選択するトスカニーニの慧眼。彼のエゴイスティックな(?)主張がまた音楽を一層劇的なものに変貌させる。
短いシーズンは1913年9月20日、ボーリを題名役とする《椿姫》で開幕した。(「私は、当時若かったボーリに椿姫を教えた」と、トスカニーニは回想している)。ポーロは、それが、「忘れられない祝典」で、「トスカニーニは喜びに満ちあふれ輝いていた。今彼らは《ファルスタッフ》を準備しており、それは、この素晴らしい小さな枠組みに於いて並外れたすべての美しさに輝くだろう」と、友人に報告した。聴衆と報道陣は、アマートが題名役で主演した《ファルスタッフ》に熱狂して我を忘れた。そのオペラの台本作者、ボーイトは、感動して涙を流した。「私を泣かせた喜歌劇!」と、彼はトスカニーニに叫んだ。
~同上書P361-362
実際、ボーイトが感涙した「ファルスタッフ」はトスカニーニの生涯の友となった作品だ。
トスカニーニ屈指の名演奏「ファルスタッフ」は、1日6時間、6週間にわたって入念なリハーサルが行われた、演奏会形式による記録である。
さすがに自家薬籠中たる貫禄の音楽が全編繰り広げられる。
何よりヴェルディの教えが、おそらく充溢したトスカニーニの、自信に満ちた渾身の演奏だったのだろうと思われる。
第1幕冒頭から第3幕最後の大団円まで息つかせぬ音楽と舞台の進行に(演奏会形式とはいえ目に見えるようにオペラティックだ)時間を忘れて没頭してしまう。
僕に歌劇「ファルスタッフ」の何たるやを教えてくれた音盤。
希望と真実に満ちた音楽の宝庫
