ウェリントンの勝利またはヴィットリアの戦い

ベートーヴェンはどうしてこんな作品を残したんだろうと、昔から疑問符のつく作品がいくつかある。例えば三重協奏曲。この作品、「オリーヴ山上のキリスト」「ワルトシュタイン」ソナタ「クロイツェル」ソナタなどとほぼ同時期に生み出されているもので、それらに比べてどうもいまひとつ精彩に欠ける。パトロンであるルドルフ大公が演奏するのを想定して書かれたピアノ・パートはテクニック面で比較的易しく書かれているそうだが、それより楽想全般に霊感が乏しいことが気になる。あえて出版する必要もなかったのではと僕などは考えてしまうが、単純に年金をいただく貴族からの要請があったから仕方なくということなのだろうか(何か他の理由がありそうだけれど、どの文献をあたってもそのあたりの詳細は見当たらない)。
それと、「戦争交響曲」と呼ばれる管弦楽作品。1813年6月、ナポレオン軍がイギリス軍に大敗を喫したのを記念し、ヨハン・ネポムク・メルツェルからの依頼により創作した音楽だけれど、こちらも何度も繰り返し聴こうとは思えないもの。しかしながら、交響曲第7番と同時に初演された当時は熱狂的に迎えられたらしく、年を越して何度も再演され、一向に人気は衰えなかったそうだからわからないものだ。

ここまで書いて思ったこと。なるほど音楽というのは大衆に受け容れられて「なんぼのもの」ということ。いろいろ調べていくと、「三重協奏曲」の時も「戦争交響曲」の時も経済的苦境を乗り切るための手段としての創作だったようだし。芸術家(音楽家)といえども身体を持っているわけで、結局「売れ」なければ食えないのである。ベートーヴェンだって霞を食って生きていたわけじゃなし。この人も人間だったんだと再確認した次第(苦笑)。

では、果たしてそういうものを我々は勝手に「駄作」あるいは「凡作」呼ばわりしていいのか・・・。少々考えさせられた。今じゃクラシック音楽というものは一種高尚なものとみなされ、芸術的側面にだけ焦点を当てて論じられることが多いが、その時代には立派なポピュラー音楽だったわけで、「わかりやすく」なければ聴衆にそっぽを向かれた。結果、芸術家(音楽家)は経済的困窮に陥り、創造行為すらままならなかった(モーツァルトが良い例)。こういうものは「駄作」、「凡作」ではなく何と呼べばいいのか?「労作」?そっか、これからは「労作」と呼ぼうか(笑)。

チャイコフスキー:
・大序曲「1812年」作品49(1958.4録音)
・イタリア奇想曲作品45(1955.12録音)
ベートーヴェン:ウェリントンの勝利またはヴィットリアの戦い(戦争交響曲)作品91(1960.6録音)
ミネソタ大学ブラス・バンド
アンタル・ドラティ指揮ミネアポリス交響楽団、ロンドン交響楽団

リヴィング・プレゼンスと称する独自の方法でアナログ初期に数々のレコードを制作したマーキュリー社の音盤が復刻され、廉価で店頭に並んでいるのを見つけ、買い求めた1枚。愛聴するポール・パレーのフランスものなどもそうだが、こちらも50年以上前の録音とは思えない生々しさ。大砲や小銃の実射音が用いられており、心臓が飛び出るんじゃないかと驚くほどの音響効果!
「ウェリントンの勝利」のような機会音楽はその時代、その場所にいた人だけがある意味享受できる(浸れる)ものなのだろう。技術的な音の生々しさには惹かれるものの、音楽そのものにはやっぱりそれほどの面白味は感じない、残念ながら。
しかしながら、自衛隊の音楽隊がブラス版で実射部隊と相対して実際に演奏したら見ものだろうと想像した。それならば、一度聴いてみたい。

「1812年」序曲は大変な名演奏。こちらも音がリアルで堪らない。


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