先日、武満徹の「鳥は星形の庭に降りる」を聴いて、「水と風の永遠」を空想した。なるほど、この人が作曲した大衆歌謡を聴いて、やっぱりここにも「水と風の永遠」があると思った。水も風も一所に止まらず、流れ行く。しかしながら、その流れ行く中にも真の永遠を秘めた音楽だけが未来へと引き継がれてゆくもの、つまり本物なんだと思ったのである。武満は書く。
大衆の歌に「流行歌」という称び名があたえられているのは日本だけではないだろうか?私はこの言葉が好きではない。呼称の当否はともかくとしても、私は、歌が一時的な流行現象と同様に考えられていることに少なからず不満をもっている。
~小沼純一編「武満徹エッセイ選」(ちくま学芸文庫)P407
音楽にはジャンルの上での優劣は厳密にはない。確かに一時的な流行に左右されることはあっても、「美しいもの」は人々の心を揺さぶる。
昨日ノ悲シミ
今日ノ涙
明日ハ晴レカナ
曇リカナ
昨日ノ苦シミ
今日ノ悩ミ
明日ハ晴レカナ
曇リカナ
石川セリの歌う「明日ハ晴レカナ曇リカナ」を聴いて、ゆったりとした可憐でセンチメンタルな歌に対して、間奏部のビートルズの”In My Life”を思わせる軽快な旋律に武満の天才を思った(編曲はコシミハル)。
私は「歌」というものは、本来きわめて個人的なものだと思っているのだが、ここでは、社会と関わりをもたない“個”から、歌は生まれるべくもないと言いたかった。
大衆歌謡はおおむね個人から個人へと歌いつがれてひろがり社会を風靡する。そして芸術歌曲とはちがった根強さがあるはずだが、おおかたは時の推移とともに滅んでゆく。しかも今日のように、マス・コミュニケーションの発達にしたがって歌は量産され、歪んだ分業化に傾けば、創る―いや、生産の側は、個人的要求などを省みるいとまもあらばこそ、ひよこのような歌い手に先生なんぞとよばれているうちはまだしも、そのうちひよこがくたばれば、それまでのことである。
~同上書P409
歌は歌い手によるのだと。そんな彼が一目ぼれしたのが石川セリの歌だ。ライナーノーツに武満は次にように寄稿する。
以前、偶々、石川セリの昔のアルバムを聴いて、自分が少しずつ、機にふれて書き溜めて来た小さな歌を、彼女にうたってもらって、なにか楽しいアルバムをつくってみたいなと、空想したことがあった。
そして、実際に形になったこのアルバムを耳にして、武満徹の耳やセンスは本物だと確信した(当たり前だけれど)。そして、同じ寄稿の中の彼の言葉を見て、この人の魂は自由を求め、心は常に開かれていたのだと知った。そう、僕は「水と風の永遠」の理由(わけ)を彼自身の言葉から理解したのである。
きっと多くの方が、なぜクラシックの、しかもこむずかしい現代音楽を書いている作曲家がこんなアルバムをつくったりするのか、不思議に思われただろう。
「翼」といううたにも書いたように、私にとってこうした営為は、「自由」への査証を得るためのもので、精神を固く閉ざされたものにせず、いつも柔軟で開かれたものにしておきたいという希いに他ならない。
魂の自由を忘れるなと。
石川セリ:翼~武満徹ポップ・ソングス
服部隆之、コシミハル、佐藤允彦、小林靖宏、羽田健太郎(編曲)
歌謡調、ワルツ調、タンゴ調・・・、石川セリの声を得て、音楽は縦横無尽に飛翔する。
録音から20余年の月日を経ても、武満徹のポップ・ソングは永遠。
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