
何人もの登場人物が策略にて亡くなってしまう。人間とは何と愚かなことだろう。
しかし、そういう悲劇があったがゆえに、生命力豊かな、美しい音楽が生み出された。
その意味では、生と死とは、実に一体だと思う。
イタリア歌劇の「歌」に最近の僕はしばしば感銘を受ける。
お涙頂戴的悲劇が主だが、物語についてはあえて云々しない。ただただあの旋律に身を委ね、心を浸すのみだ。
ジャコモ・プッチーニの言葉に膝を打つ。
ここでプッチーニはヴァジレフスキ自身がドイツ語で語った言葉を引用し、こう付け加えた。「私はドイツ語はまったくわからないが、この言葉を流ちょうに話すバッツィーニが次の一文を教えてくれた。
『イタリア人は、響きの根源的な美しさに対して、生まれつきの際立った感覚を備えている』。ここに、ドニゼッティやヴェルディ、それに私が拠って立つ礎があり、そこでは音の美しさを優先させて劇的な緊張感を犠牲にする。これは基本的に、《リゴレット》《アイーダ》《ルチア》それに《トスカ》での、常套的な手法からの逸脱を説明している。私はこの4つの作品についてだけ、君の注意を促した。他にも例は多いが、私の言いたいことを示すにはこれで十分だ。よく考えてみてくれ、エーブルさん。イタリアの歌劇をドイツのものと比べてみて欲しい。そうすれば、我々イタリア人がドイツ人よりも、悲しみ憂い、心の苦しみを、長調でより効果的に表現できるのを確信するだろう。ドイツ人なら、同じ感情を表わすのに短調に頼るに違いない」。
~アーサー・M・エーブル著/吉田幸弘訳「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」(出版館ブック・クラブ)P196-197
特に当時は、言語を重視した。特にイタリア人は言葉を大切にした。
だからこそ歌の旋律の美しさが際立ったのであろう。そもそも比較するものではないが、イタリア歌劇の特長を端的に示した良い例だと思う。
マリア・カラスのヴェルディ歌劇「リゴレット」(1955.9録音)を聴いて思ふ
マリア・カラスのドニゼッティ歌劇「ランメルモールのルチア」(1953.1-2録音)を聴いて思ふ カラヤンの「トスカ」は、ウィーン・フィルとの旧盤に止めを刺す。
何よりトスカを歌ったレオンティン・プライスの歌が素晴らしい。
一方、20余年のときを経て、晩年のカラヤンがベルリン・フィルと録音した新盤。
録音の前年、78年9月、リハーサルの最中、カラヤンは発作に見舞われ、右半身の事由を失ってしまう。そして、1980年1月のコンサートでは、指揮台に向かう途中にまた転倒してしまうのである。
そういった不安定な体調の中で録音された「トスカ」は、それでもカラヤンの意気込みが見事鬼発揮され、歌手陣の健闘もあり、美しくも素晴らしい仕上がりになっている。
全編、ベルリン・フィルの機能美を追究した、カラヤンならではのプッチーニだが、個人的に第3幕を好む。管弦楽による前奏「風が動かす木の葉ほど多くの溜め息を貴女に送る」から悲劇的な物語を見事に彩るプッチーニの完全なる音楽が雄叫びを上げる(?)。
それにしてもどの瞬間もどうしようもなく感情移入してしまい、まったく聴き逃せない。
マリア・カラスのプッチーニ歌劇「トスカ」(1953.8録音)を聴いて思ふ 