シューリヒト指揮パリ音楽院管 シューマン 交響曲第2番ハ長調作品61(1952.7録音)ほか

ザッハリヒなシューマンに当時、世間はいかに反応したのか。ジュネーヴのとある新聞評が的を射ている。

このシューマン作曲の交響曲第2番は、作品そのものから解放されたといえるであろう。シューリヒトはこの曲を見事なまでに花開かせた。この楽曲解釈には、多くの形容は不要であるし、何かを語ってしまったなら、その魅力を損ないそうである。心が震えるほど美しかった、とだけ言わせていただこう。
(ジュネーヴのある新聞評)
ミシェル・シェヴィ著/扇田慎平・塚本由理子・佐藤正樹訳「大指揮者カール・シューリヒト―生涯と芸術」(アルファベータ)P126-127

僕がロベルト・シューマンの、(賛否両論たる)交響曲第2番ハ長調に目覚めたのは、レナード・バーンスタインが提唱し、亡くなる同年の札幌でのリハーサル風景などを収めたPMFのレーザ・ディスクを観たときだった。音楽の本来の美しさ・素晴らしさを抉り出した演奏は、鬼気迫るものだったし、同時に喜びも悲しみも、すべての感情が刷り込まれた、それはそれは見事なリハーサルであり、また本番の演奏だった。特に、あの、情念の奔流とも思える、渾身の第3楽章アダージョ・エスプレッシーヴォに触れた時、僕は金縛りに遭ったかのように感動した。

シューマンの革新性 シューマンの革新性

その昔、僕はカール・シューリヒトによるデッカのスタジオ録音で繰り返し聴いていたが、録音の問題もあったのか、今一つその魅力がわからなかった。(否、間違いなくそれは僕の器の問題だ)
しかし、かのバーンスタインの演奏に痺れて以降、憑りつかれたように繰り返し音楽を聴くことで僕はこの作品を手中にし、その後、シューリヒトの演奏を聴いたとき、ついにその意味と意義が腑に落ちたのである。

シューリヒトのシューマン第2交響曲 シューリヒトのシューマン第2交響曲

1950年代以降、62年前にシューリヒトはこの曲を25回演奏しているということだが、その起点がやはりこのデッカ盤だった。シューマンの交響曲第2番は、シューリヒトの手によって復活した。

シューリヒトのような貴公子の手にかかると、どんな作品でも『眠れる森の美女』のように永い眠りから目を覚ます。この1953年1月28日の「美女のなかの美女」は、まさにこのシューマンの交響曲第2番である。それは見事な仕上がりで、この著名な指揮者はオーケストラから理想的な音を生み出すことに成功した。これは彼の演奏でも最も素晴らしかったといえるだろう。ごくわずかな揺れにいたるまで、厳密にコントロールされていたため、テンポはきわめてなめらかで、この曲の直観的な面はピアニストの指先が操る鍵盤のように、オーケストラ全体に自然に行きわたった。この衝撃的な交響曲の解釈から導かれた荘重さ、豊かさ、完成度の印象などは、その結果、重視されなかった。シューリヒトは天才的な指揮者であり、紛れもない魔術師である。
(エドゥアール・シューラー・ムーア「トリビューン・ドゥ・ジュネーヴ」)
~同上書P126

「荘重さ、豊かさ、完成度」という手放しの讃辞。そして、魔術師という驚嘆の念。
バーンスタインのそれと異なるのは、そこに独断的情念を被せない点だ。あくまで純粋に、ロベルト・シューマンの鬱的傾向をそのまま投影しつつ即物的に(?)料理しているところだろう。

交響曲第2番とはどんな曲であるのか。それがまさにまさに敬虔かつ巧みな技によって甦ったのである。今までシューマンの交響曲に向けられた非難を決して認めなかった其の愛好家たちも、やっと自分たちが正しかった証拠を発見できたのだ。この交響曲は最も美しいといわれるベートーヴェンの交響曲と並ぶところにまで辿り着いた。暗示する力はときにより強く私たちの感動を呼び起こす。それは苦悩と不安な魂への詩的な歌声であり、その歌声の中に予兆、想像、悔悟、躍動の思いが、穏やかな寛ぎと優しさとなって現れる。音楽とは、作曲家とそれを解釈し演奏する者のあいだに、これほどまで密接な協力を強いることはないものである。彼は完璧な技術と美徳の輝きによって、堂々たる、恐れを知らぬ、完全無欠の騎士のような姿で、私たちの目の前に現れた。音楽に人を癒す力と勇壮で友愛に満ちた力を取り戻したのである。
(ヘルマン・ラング「ヌーヴェル・ルヴュ・ドゥ・ローザンヌ」)
~同上書P126

人間とは思考の生き物であり、その最悪が「不安」という得体のしれない魔物である。しかも、その魔物を癒す効果が巨匠の演奏にはあったというのだから素晴らしい。

シューマン:
・序曲、スケルツォとフィナーレ作品52(1954.6録音)
・交響曲第2番ハ長調作品61(1952.7録音)
・交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(1953.6録音)
カール・シューリヒト指揮パリ音楽院管弦楽団

結局のところ、シューリヒトは、ロベルト・シューマンの亡霊から解放したのである。
暗澹たる、鬱々とした表情から逃れ、終楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェの爆発により音楽は生命力を発揮する。コーダに向けて一気呵成に進むその力は、生きることへの希望であり、喜びを表そうとした、当時のシューマンの本意がようやく叶った、そういう印象だ。

3度目の正直 3度目の正直

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