
山あり谷ありのショスタコーヴィチの人生にあって、1958年頃は公私ともに絶頂の時期だった。6月、彼はふたたびヨーロッパへの旅に出る。
2度目のヨーロッパ旅行は、先にも触れた英国王立音楽アカデミー会員の称号授与式とオックスフォード大学の名誉博士号授与式に出席するのが目的だった。この時のオックスフォード滞在については、歴史家アイザイア・バーリンが興味深い回想を残している。
授与式を無事終えたショスタコーヴィチは、翌日、同じ受賞者であるフランスの作曲家プーランクと英国の歴史家で『ヒトラー最後の日々』の著者ヒュー・トレヴァー・ローパーの自宅を訪ね、客間でそれぞれ自作を披露した。最初にセイロン出身の男性チェリストによるショスタコーヴィチのチェロソナタの演奏が、次に、プーランクの歌曲から何曲か、そして彼のチェロソナタの一部が紹介された。その後、居合わせたバーリンの求めに応じ、ショスタコーヴィチは『24の前奏曲とフーガ』を演奏し、プーランクは、若い時代に書いたバレエ音楽『牡鹿』から何曲かを演奏した。
バーリンは、「あまりにも壮麗で、あまりの深さと情熱を湛えた『24の前奏曲とフーガ』の後ではもはやプーランクの音楽は聞くに堪えなかった」と書き、「西欧の没落は、残念ながら、あまりにも明瞭なものとなった」と断じた。また、すっかり存在感をなくして、完全に脇役に回ったかたちのプーランクの居心地悪げな姿は、まさに「ピカソを前にしたコクトー」さながらだったと回想している。バーリンの回想には、彼自身のロシアびいきが反映している可能性もないではない。だが、その彼が、この時期のショスタコーヴィチの威光と、ソヴィエト社会に身を置く彼の芸術的起源ともいうべきものについて誤りなく本質を看破していたことだけは疑う余地がない。
~亀山郁夫「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」(岩波書店)P373-374
プレートルのプーランク「牝鹿」、「典型的動物」ほかを聴いて思ふ 人間の判断とは、必ずそこに「色眼鏡」たるフィルターが付きものだから、100%言葉通りにとらえる必要はないが、一方、プーランクのことを知っていくと、当時の彼は決して調子が良かったわけではないことが見えてくるから面白い。
このころ彼は、マリー=ブランシュ・ド・ポリニャック伯爵夫人が2月14日に亡くなったという報せを受け、大きな悲しみに包まれた。彼女の友情と物心両面での支援は、プーランクのみならず、ナディア・ブーランジェにとってもかけがえのないもので、二人はその死を嘆き、互いに慰め合った。このときのカンヌで、彼は鍼治療を受け、不調はこれによって幾分和らいだ。情緒不安定は続いていたものの、なんとかオペラ《声》の構想を練り、スケッチを始めることができで、今やかけがえのない「友」となったかつての恋人リシャールに、音楽の一部を弾いて聞かせた。
~久野麗「プーランクを探して 20世紀パリの洒脱な巨匠」(春秋社)P324-325
「ナディア・ブーランジェの知られざる音楽」歌曲集(2015&16録音)ほかを聴いて思ふ 天才といえど人間だ。環境の影響を受け、そして心は揺れ、真に無心であることは難しい。
実際、プーランクのチェロ・ソナタは美しい佳曲だ。
正しい演奏を聴かせれば、そして、先入観なく聴いてもらえれば、これほどセンスに溢れる音楽はない。
演奏旅行出発前の最後の完成作品となったのは「ノワゼー 4月~10月 1948」と楽譜に記されている《チェロ・ソナタ》FP143で、これがなぜ「訳あり」かと言えば、ヴァイオリン・ソナタの場合同様、あまりにも優れた演奏家に依頼されてしまったために、決して得意ではないジャンルの作品を断わることができなかった、からである。依頼者はヴィルトゥオーゾとして知られる名チェリストのピエール・フルニエ(1906-86)。プーランクはこの作品のスケッチをすでに1940年には手がけていたが、この年に至るまで筆は進んでいなかった。フルニエの依頼が何年だったのかは、どの伝記にも記されておらず不明である。
~同上書P242
特に、第2楽章カヴァティーナは絶品。
どれほどの専門家であろうと、他人の評価ほど当てにならないものはない。
芸術はすべて、自分の目で、そして自分の耳で確かめるしかない。
重要なことは自身の審美眼を養うことであり、そのために体験、体感を増やすことだ。
プーランクの室内楽曲は、概して個人的な、心の奥底を吐露する、実にインティメットな印象を受けるものが多い。その分、彼の性質や、あるいは人生の背景や、そういうものがわからないまま耳にすると「わからない」という場合が多々あるのだと思う。
さすがに委嘱者であるフルニエの演奏は堂に入る。
私的な試奏の会で実際の音を聴いたプーランクは息を呑んで絶賛したという。
「彼の演奏は実に正確で、ベルナックと演奏しているような気がした」
(ピエール・ベルナックは、音楽上の伴侶として長らく共に活動した同い年のバリトン歌手)
(彼もまた同性愛者であったが、「恋愛関係」だったかどうかは不明)
