ボロディン弦楽四重奏団 ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第7番嬰ヘ短調作品108ほか(1991.2 &7録音)

スターリンの恐怖。
スターリン亡き後も、スターリンの亡霊と闘い続けたショスタコーヴィチの人生は、真と噓の間での自分自身との闘争だった。ついに共産党員にならざるを得なかった彼の苦悩はいかばかりだったか。

さて、ショスタコーヴィチの人生において、誇張ぬきで「悲劇的」と呼べる事件が、雪解けから4年後の1960年に起きる。思うに、1960年はまさに暗転の年だった。この年の3月、彼は何を思ったか、亡き妻ニーナの思い出に捧げる弦楽四重奏曲第7番を手がけた。3楽章形式で、なおかつ演奏時間も全体で13分強ときわめて短く、内容的にもごく簡潔な仕上がりである。ニーナが死んで5年、生きていれば50歳。おそらくはそのことをどこかで意識していたにちがいない。
亀山郁夫「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」(岩波書店)P378

亡き妻に捧げるメモリアルは、彼の弦楽四重奏曲の中で最短とはいえ実に充実した、深い内容を持つ。個人的に、どの楽章も「愛の囁き」ともいうべきもののようにとらえる。マクシム曰く、その死に際して号泣した、その悲しみがようやく癒えたのか、ショスタコーヴィチらしい諧謔的な音楽はどの瞬間も実に透明だ(ボロディン四重奏団による演奏の中では、やはりオリジナル四重奏団がベストだが、91年の録音はとても肯定的な、楽観的な音がする)

ボロディン四重奏団 ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第8番ほか

では、何がショスタコーヴィチにとって「悲劇」だったというのか。1960年当時、フルシチョフの指導のもと「雪解け」が進むなか、ショスタコーヴィチはいやおうなく再生ソヴィエト政権の文化使節としての役割を担わされるようになっていた。ファニングが書いている。「とりわけ1960年、ショスタコーヴィチの公的な声明の数々はそのトーンにおいていまだかつてないほど順応主義的になっていた」。すでに述べたように、1958年のレーニン賞受賞は、当然のことながらソヴィエト当局からの一種のサインだった。ショスタコーヴィチがこの賞のもつ意味、あるいはこの賞が暗示する方向性に気づかなかったとは考えられない。だが、当局からすれば、それらはすべて、彼の共産党入党に向けた暗黙のシナリオにもとづくレール敷きであったことはいうまでもなかった。ほかのだれでもない、いまや政治的栄光の頂点にあるフルシチョフ個人が彼の入党をつよく要求していたことが知られている。
~同上書P381

歴史とは面白いものだ、後世になってようやく一般の人間が知ることになる事実。多くは秘匿の中で進められる、特に政治的な「事件」にも、必ず暗躍する誰かがあり、誰かの意志、企図が働いているのである。
その上で、自身へのレクイエムとして生み出された、全楽章が短調で構成される弦楽四重奏曲第8番は、妻のメモリアル作品とやはり対をなす。

息子のマクシムは回想している。
「60年の夏に父がぼくとガーリャを仕事部屋に呼んだ時のことはけっして忘れません。父は「党員にさせられてしまったよ」というなり泣き出したのです。父が泣いているところを見たのは生涯で二度だけ。母が死んだ時と、この不幸な日付だけです」ショスタコーヴィチの共産党入党は、若い世代の作曲家たちにも強烈な失望と衝撃を与えた。作曲家ソフィア・グバイドゥーリナもその一人である。
「1960年にショスタコーヴィチが入党した時、私たちの失望は留まるところを知らなかった。これほどの人が破壊されてしまうということ、われわれの体制は、天才をもめちゃくちゃにしてしまうということ、それは、私たちには合点のいかない何かだった。政治的状況がなにゆえか緩みだしたまさにその時に、おのれの尊厳を守ることがついに可能となったと思われたその時に、ショスタコーヴィチはなぜ政治的な追従の生贄となったのか、私たちはただ訝しがるばかりだった」

~同上書P384

ソフィア・グバイドゥーリナの「リペンタンス」(2013.6録音)を聴いて思ふ ソフィア・グバイドゥーリナの「リペンタンス」(2013.6録音)を聴いて思ふ

自己憐憫以外の何ものでもない音楽は、本人が想像する以上の傑作になったが、すべては因果の清算の中にあることを忘れてはならない。

ショスタコーヴィチ:
・弦楽四重奏曲第8番ハ短調作品110(1960)
・弦楽四重奏曲第7番嬰ヘ短調作品108(1960)
・弦楽四重奏曲第3番ヘ長調作品73(1946)
ボロディン弦楽四重奏団
ミハイル・コペリマン(第1ヴァイオリン)
アンドレイ・アブラメンコフ(第2ヴァイオリン)
ドミトリー・シェバーリン(ヴィオラ)
ヴァレンティン・ベルリンスキー(チェロ)(1991.2&7録音)

何より、自身のそれまでの人生のすべてを総括した弦楽四重奏曲は闘争のハ短調で示される。誰との闘いなのか、あくまで自己との闘いであった。
(そのため、過去を葬り去らんと直前に、妻への完全なる告別の歌を書かなければならなかった)
ショスタコーヴィチは語る。

この作品の基本的テーマは、DSCHつまり私のイニシャルD.SHです。この作品に私は、自分がそれまで作曲したもの、すなわち交響曲第1番、交響曲第8番、三重奏曲、チェロ協奏曲、『マクベス夫人』と革命歌「過酷な徒刑に苦しめられて」を組み合わせました。ワーグナー(『神々の黄昏』の中の葬送曲)やチャイコフスキー(交響曲第6番)も暗示的に使いました。そう、忘れていました。自分の交響曲第10番を使います。いやはや、アクローシカ・スープのようなまったくのごたまぜです。
(ドミトリー・ショスタコーヴィチ)
~同上書P385

ハイティンク指揮ロンドン・フィル ショスタコーヴィチ 交響曲第1番(1980.1録音)ほか ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管 ショスタコーヴィチ 交響曲第8番(1982.12録音) アルゲリッチ クレーメル マイスキー ショスタコーヴィチ ピアノ三重奏曲第2番ホ短調作品67ほか(1998.5Live) ロストロポーヴィチ ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ・フィル ショスタコーヴィチ チェロ協奏曲第1番変ホ長調作品107(1961.2.10Live) ロストロポーヴィチ指揮ロンドン・フィル ショスタコーヴィチ 歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」(1978.4録音) カラヤン指揮ベルリン・フィル ショスタコーヴィチ 交響曲第10番ホ短調作品93(1969.5.29Live)

ごたまぜが最高傑作になるという矛盾(?)は、本人が無意識下で創造したものだ。
ショスタコーヴィチほど外的苦悩が創造の糧になる人はいまい。

そして、時代を遡って、戦後まもなく。

弦楽四重奏曲第3番は、その全体的な成り立ちからしてあたかも、作曲家の創造上の進化におけるある大きな段階を完成させるべき使命を負っているかのようである。この弦楽四重奏曲の後、ショスタコーヴィチの伝記には、相対的に創作面で落ち着いた一年が訪れた。
(レヴォン・アコピャーン)
~同上書P301-302

第3番の明朗な開始と、巨大な音楽の構成に、確かに大いなる進化がある。
「煩悩即菩提」ということを僕は繰り返し書いている。体制という窮屈な中にあってこそ生まれ得た芸術は、そういう窮屈な中であったからこそ進化し、深化できたのだと思う。
30分ほどの時間の中に現出する様々な感情は、人間ショスタコーヴィチの「酸いも甘いも」を見事に描く。その思念に同期したボロディン四重奏団の演奏は、いつの時代であろうと不滅だ。

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