
活発で情熱的な「動」のフロレスタンと、沈思黙考する「静」のオイゼビウス。
ところが、由来、芸術家というものは、いつも先へ先へと気高い努力をつづけている癖に、どうかするといまできたばかりの一番新しい作品を、自分の最高のものと思ってしまうものである。
~シューマン著/吉田秀和訳「音楽と音楽家」(岩波文庫)P22
オイゼビウスの自省。そして、彼はまた次のように続ける。
音楽の発展の速いことは、実際ほかの芸術の比ではなく、比較的よいものでも、10年もたってなお世間の人の口にのぼるものは、ほとんどないといってもよいくらいである。多くの若い精神のなかには、自分では土台の石一つ運ばなかった高所にたっているくせに、その恩を忘れて、さらに新たな境地を開くことを省みないものが多いが、これは近来のあらゆる世代の犯している狭量の仕業だ。しかもどうやら、今後も当分この様子が続きそうに思われる。
僕もその若者の一人にちがいないが、この点ではたとえ相手が最愛のフロレスタンであろうとも、甘んじて手を握りあう気になれない。
~同上書P23
いつも謙虚に自戒することが大切だ。
真理は、共生であり、新生だとあらためて思う。(常に新た、共に新た)
フロレスタンは返答する。
これはオイゼビウスらしい、いかにもお美しい心掛けだが、笑止千万、片腹痛い。いかに君たちが躍起となって君たちの時計の針を戻そうとも、これから先も相変わらず太陽はのぼるのだ。
いかにも、僕は、あらゆる現象にそれぞれその処を得せしめるという、君の心がまえを高く買ってはいるが、結局君は偽装ロマン主義者だと睨んでいるんだ—そのほかの名を御遠慮申そう。下らぬ名前をつけても、いずれ時が洗い落すだろうから。
~同上書P24
大自然の運行に委ねよという。人間の小さな知恵では事はどうにもならぬ。
世界は陰陽で成り立つが、陰陽を統合した「理」を得ることこそ、21世紀の今、白陽の今、必須だ。フロレスタンとオイゼビウスは本来一つであるべきだ、否、もともと一つだった。
オットー・クレンペラーを聴いた。
数年の時をおいて創造された2つの交響曲は、片やフロレスタン的側面が強調された音楽であり、片やオイゼビウス的側面に塗りたくられた音楽だ。しかし、実際には、こうやって並べて聴くことで、2つが一度に続けざまに鳴らされて初めてその真意をつかめる、ロベルト・シューマンが意図せず仕組んだ宇宙の設計図のようなもののように僕には思える。
晩年のクレンペラーの生み出す音楽は、得てして鈍重に陥るが、第1番は極めて明朗な音調を保持し、「春」という標題通り、極めて希望的な音楽を示す。
(クララ・ヴィークとの結婚が遂に認められ、晴れて夫婦になったことへの歓喜が表現される音楽を、クレンペラーは躁状態的に料理する。
一方、躁鬱持ちだったクレンペラーの本懐たる第2番の陰鬱さは、他のどの指揮者のものより強烈だ。(これほど気が滅入ってくる表現があろうか)
個人的に、1990年のPMFでのバーンスタインの映像を観て、僕はこの音楽の虜になったのだが、その印象はまるで違う。バーンスタイン盤にあったうねり、生命力は極めて少なく、クレンペラー盤は、死に体の、閉じられた生命の箱庭のよう。おそらくこれは、鬱状態を発揮するクレンペラーのある意味本懐と言えまいか。(その意味では音楽の本質を見事に表現する)
私は人間と音楽を愛する 青年たちよ、君たちは二人とも間違っている。なまじ相手が有名なために、一人はそれにとらわれているし、一人は反抗的になっている。
「西東詩篇」に曰く、
ただ沈黙の中にのみ啓け行くものを
あたかも名によりてあるかの如く、—
神により形作られしままの
美しき良きものこそ、我は愛す。
ラロー
~同上書P28
物事に是非はない。勝手な妄想、空想は止めにしよう。
春 