自然を大切に。そう、「ありのまま」を大切にせよということだ。
最近、尾崎豊の創作した全楽曲が配信解禁になった。そういえば十数年前の今頃だっけ、彼が亡くなったのは・・・。僕は特別尾崎豊のファンではない。その音楽も全てを聴き尽くしたわけでもない。もちろん全曲をソラで歌えるはずもない。それでもかつての仕事の思い出とオーバーラップして、いくつかの曲は心に染み入る。その歌詞に感動し、懐かしさすら覚えてしまう。彼がデビューした時(あるいは一世を風靡していた時期)、僕は既に東京で楽しい生活を送る大学生であった。高校生の頃はクラシック音楽一辺倒であった。大学に入学し、その時出逢った友人たちの影響で初めてビートルズをまともに聴いた。一聴感動した。それからはクラシック音楽と並行していわゆる60年代&70年代ロックを聴き漁った。もちろん当時の流行の音楽もオンタイムで聴いた(MTV、小林克也のベストヒットUSAなど懐かしい)。それでもいわゆる邦楽だけは先入観からか手を染めなかった。ゆえに尾崎の音楽もオンタイムで聴けていないのだ。
「僕が僕であるために」
人は誰しも弱い。他人に負けたくないという一心から自分に固執する。「自分らしさ」を追求するのに他者と比較する必要があるのか?「僕が僕であるために」いかに「他人に優しくなれるか」じゃないのか?「正しいこと」なんてあるのか?ひとそれぞれ「正しいこと」って違うんじゃないのか?すべて永遠の難問である。
「I Love You」
許可を得ようが得まいが、恋に理由などない。自由に振舞えばよい。
本当に久しぶりに聴いた。ちょっと息が詰まるほど・・・。それでも楽曲の秀逸さは計り知れない。ただ、ちょっと詩の内容が滅入らないでもない。いわゆる芸術というのは「負」の産物なのだから、尾崎も一流の芸術家の仲間入りをしたのかな・・・。尾崎の歌はどれも切ない。そしてどれもが正直で自然体である。
今の俺は尾崎豊の歌には励まされない。尾崎豊はピュア過ぎた。もっと図太く開き直って生き抜かなきゃいけなかった。今思うと、尾崎豊も、彼の歌に励まされていた過去の俺も、恵まれた時代の温室育ちで世間知らずの坊ちゃんだった。だから、今ではとても気恥ずかしいし、カッコいいとも全然思わない。
今、俺は、瀬戸内寂聴責任編集の『the 寂聴 第3号』(角川学芸出版)を読んでいる。その中の「第3回安吾賞 受賞記念講演 《命がけで書いて生きる。》」での寂聴の言葉に、こんな一節がある。
・・・・・・(私は)あの世ではどうせ地獄に参りますけれども、地獄の方が賑やかで楽しいような気がします。極楽なんていつもきれいな花が咲いていて、食べるものはいっぱいあって、金殿玉楼が並んでいて、そんな所へ行ってもつまらないじゃないですか。やはり、「今日はどうやって責められるのだろう、今日はどんな鬼が来るんだろう」と緊張している方がおもしろいと思いますね。地獄へ行くのは怖くないのですけれど、今の日本の状態がもしかしたら地獄かもしれないと思います。・・・・・・
同じ「負」の産物でも、こういう開き直りの言葉のほうが余程励まされるし、カッコ良く感じる。生きる力にもなる。やはり俺もそういう歳になったからなのだろうか?
>雅之様
こんばんは。「まさに!」というご意見ありがとございます。
僕もそうですが、「そういう歳」になってしまったんでしょうね。それでもごくごくたまに聴くと良い音楽を書いたものだと思います、彼は。「The 寂聴」面白そうですね。
私たち世代(80年生まれの申年たち)より、尾崎世代はちょっと上の印象がありますが、それでも、私たちの世代にも尾崎人気は絶大です。歌から「10代の頃の壊れそうな感じ、自分や他者との葛藤」みたいなものが言葉だけでなく、声や音からも溢れまくっている感じがします。魂?見えない力?そんなものを感じます。すごいな~と素直に思います。で、私自身は・・・というと、10代の頃からおじさん志向だったのか、チャゲアスから始まって、中島みゆきにどっぷりはまっていた中学時代でした(笑)。当時リアルにその年齢だったはずの私には、案外尾崎ってあんまりピンと来なかったんですよね。今の私の方が、素直に感動してる気がします。不思議な懐かしさです。
岡本さんと、尾崎豊の取り合わせが、とっても新鮮で(笑)コメントしてしまいました!
>ほんだぱん
おはよう。尾崎っていうのは人それぞれある時期に限って「普遍性」をもつロッカーだったんだろうね。その時じゃないとピンと来ないという・・・。
>岡本さんと、尾崎豊の取り合わせが、とっても新鮮で
でしょ?(笑)今や滅多に聴かないけどね。
生きてて良かったぁ|尾崎豊Jr.裕哉
尾崎豊Jr.裕哉
の写真が初公開されてました
ネイリストの松下さんのブログです。
僕の心は尾崎豊でできています。
これほど、心を…