ドビュッシーとマーラー

昨夜の横山幸雄のショパン全曲演奏会の興奮覚めやらぬまま少しばかりの睡眠をとり、朝を迎えた。どこにそんな体力と気力があるのか、ともかくとても人間業とは思えない、そんな時間があっという間に過ぎた。午後からの第45回「早わかりクラシック音楽講座」に備えて頭を冷やしながら、またしても音楽のもつ力、そしてそれを表現する演奏家について考えた。演奏家、ピアニストというのは作曲家の思考を代弁する使徒のようなものだと思うが、昨日の横山氏は代弁どころかある意味その本人、ショパンになりきっていた・・・。作家の平野啓一郎氏がこれはもう降霊術のようだという意味のことをパンフレット上で書いておられていたが、確かに「考えて」弾くのではなく「弾かされている」、そんな状態だった(脱帽)。

ドビュッシーの「海」をメインの肴にし、その周辺を掘り起こして話をし、いくつかの音盤を聴いた。「海」は真に貴い作品であることがあらためてわかった。なぜその時作曲者は「海」を題材にしたのか?もちろん北斎の絵画にインスパイアされたということはあろう。そして、エンマ・バルダック夫人との許されない恋から、「海」を女性に見立て、自らの理想を重ね合わせるかのように内から湧いて出てきたということもあろう。2種の音盤(デュトワ&モントリオール響盤ブーレーズ&クリーヴランド管盤)をじっくりと聴き、それまでの音楽にない斬新さとかっこよさを再確認。

ところで、同じ時期、隣の国ではグスタフ・マーラーがアルマとの幸せな結婚生活を堪能し、第6交響曲をまさに生み出さんとしていたっけ。先日、タワーレコードで見つけた超お得盤(890円!)で久しぶりに聴く。

マーラー:交響曲第6番イ短調
ジョルジュ・プレートル指揮ウィーン交響楽団(1991.10.10Live)

期待してトレーに乗せてみたものの、少し肩透かしを食らったような感じ。おそらく実演で聴いたらば大変な感動を保証してくれただろうことが容易にわかる演奏。何より音圧の低さに辟易。音が前に出てこないのである。それに相当ボリュームを上げないとズシンと響いてこない。ひょっとすると僕の装置、あるいは部屋の環境にも問題があるのかもしれないが、それにしても、である。先ほどの「海」が相当な重量感で耳と心に迫ってくるのに、ほぼ同じ頃に録音された実況放送が薄っぺらく聴こえてしまうのには相当辛いものがある。演奏の素晴らしさが垣間見えるだけにもったいない。

それにしてもドビュッシーの音楽性との違いが明確にわかって面白い。


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