
よくもまぁ、これほどまでに明朗な、そして愉快な音楽が湯水の如く創造できるものかと思う。モーツァルト然り、こういう人を神童からの天才というのだろう。
久野麗さんの「プーランクを探して」が面白い。
これほどまでに緻密に作曲家のことを描き切るその才能と、事実を深掘りする努力に頭が下がる。
31年末から32年1月にかけて、プーランクはノワゼーとパリを慌ただしく往復し、数々の演奏会等に足を運んでいる。中でも、1月14日のラヴェルの《ピアノ協奏曲ト長調》のパリ初演(ラヴェル指揮、独奏マルグリット・ロン[1874-1966])が、彼の作品に直接与えた影響は大きかった。また、ピアニストとしても多くの演奏会をこなしていた。このような中で《仮面舞踏会》は、本番10日前の4月10日に完成した。
~久野麗「プーランクを探して 20世紀パリの洒脱な巨匠」(春秋社)P108
ノアイユ子爵夫妻からの委嘱による世俗カンタータ「仮面舞踏会」は、当時のパリの喧騒を、あるいは洒脱なキャバレー風の様子を見事に音化した、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」に優るとも劣らぬ傑作。
読まれ、演じられ、そして踊られる この作品は、100%プーランクである。もし、カムチャッカ半島に住む見知らぬ女性から「あなたはどんな方なのでしょうか」と手紙が来たら、私はその人に私の肖像画を2枚(コクトーが描いたピアノに向かっている姿と、クリスチャン・ベラールが描いたもの)、そして《仮面舞踏会》と《悔悟節のためのモテット》を送ろう。そうすれば彼女はヤヌスのプーランクのきわめて正確な姿を思い描くことができるはずだ。
(プーランク「歌曲日記」)
~同上書P109
フランシス・プーランクは性的矛盾を抱える多重人格者だったのだろうか。
グラン・コトーを手に入れたプーランクには、いずれはそこにレイモンド・リノシエと住み、結婚して安定した生活を送るという心づもりがあった。1928年、プーランクはリノシエに結婚の申し込みをしようと決意するが、直接切りだす勇気がなく、彼女の妹アリスに長い手紙をしたため、姉への打診を頼んだ。しかし、プーランクの同性愛傾向を察知していたリノシエに、彼との結婚は考えられなかった。
~同上書P90
直後、プーランクは本当の「恋」をするのだ。
(相手は両替商の息子であるリシャール・シェンレール)
きみは僕の30年の人生の太陽だ。生きる理由だ、仕事をする理由だ。孤独な長い月日の間、僕はまだ見ぬきみを呼んでいたのだ。
(1929年5月10日付、リシャール宛手紙)
~同上書P91
熱烈なラヴレターに、プーランク自身は「大っぴらにはできない」とヴァランティーヌ・ユゴーに告白している。嗚呼、可哀想なフランシス。
一方、ザ・シックスティーンによる「人間の顔」と「ある雪の夕暮れ」の敬虔な、信仰の顕現のような音楽に、愉悦だけではない、プーランクの真面目を思う。
私は家系的にも、生来宗教心のある人間です。政治的な強い信条を持つことはできませんが(唯一、1917年のクレマンソーは熱烈に支持しています)、宗教を信じ実践することはごく自然なことと感じられます。私はカトリック教徒です。これは私にとって最も大きな自由です。とはいえ、母方が宗教に無関心でしたから、私も長い間信仰を怠っていました。正直なところ、1920年から35年前の間、信仰のことはまったくと言っていいくらい考えていませんでした。
(クロード・ロスタンとの対話)
~同上書P130
本来宗教と信仰は別物ゆえ、プーランクのこの言葉にも多少の誤解があるとは思うが、それでも信仰を失っていた期間があることを自覚し、そしてその信仰がある時期突如として復活したことを認識できたことは彼にとって素晴らしい見性体験でなかっただろうか。
