シノーポリ指揮シュターツカペレ・ドレスデンのR.シュトラウス「ドン・ファン」を聴いて思ふ

schumann_mendelssohn_sinopoli125リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」は革命だ。

これらのうち特に注目すべきは、何といっても「ドン・ファン」である。カール・ダールハウスは、シュトラウスの「ドン・ファン」とマーラーの交響曲第1番が初演された1889年を、音楽史における近代の始まりとしている。一気に駆け上がり、広大な音空間を一瞬で切り開く「ドン・ファン」冒頭は、まさに音楽における近代のエンブレムであり、ポスト・ワーグナー時代(あるいは世紀末または世紀転換期)の到来を告げる狼煙であった。
岡田暁生著「作曲家◎人と作品リヒャルト・シュトラウス」(音楽之友社)P59

今でこそ傑作として受容されるこの交響詩を当時の人々は本当に理解し得たのか。
父フランツの説教がましい手紙を読む限りにおいて想像するに、とても困難だったのだろう。

管楽器をもっと節約し、注意深く扱うように、外面的な輝きのみを追うのではなく、もっと内面的な内容に気を配るように。色彩とは常に別の何かのための手段にすぎないのだから。
~同上書P60

とはいえ、この作品の根底に反映される放蕩者ドン・ファンの身勝手さと悲哀についてはシュトラウスの光彩放つ音楽が十分に物語る。その意味では実に描写的。

ところで、1992年のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団創立150周年来日公演はとても残念なものだった。
もともとはカルロス・クライバーが指揮を務めることになっていたのだが、数日前に体調不良を理由に突如キャンセルとなり、ジュゼッペ・シノーポリが急遽代役で登場した。プログラムも大幅に変更となり、せっかく久しぶりにカルロスの指揮姿を拝めると期待した聴衆の意気消沈ぶりはいかばかりだったか。
実際僕もそのチケットは持っていたし、今も大事にとってある。

その時、シノーポリによって演奏されたのがまさに「ドン・ファン」であり、マーラーの交響曲第1番「巨人」だったのである。

R.シュトラウス:
・交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」作品30
ジュゼッペ・シノーポリ指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団(1987.5録音)
・交響詩「ドン・ファン」作品20
ジュゼッペ・シノーポリ指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1991.9録音)
・楽劇「サロメ」作品54~7つのヴェールの踊り
ジュゼッペ・シノーポリ指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団(1990.12録音)

c_kleiber_vpo_1992理知的と言えば聞こえは良いが、このあまりに左脳的な解釈に僕の心は動かない。実際フランツが指摘したように、外面的な輝きのみを追った作品ならばこの冷たく完璧な解釈で良かろう。しかしながら、シュトラウス自身の真意は違ったはず。
リヒャルト・シュトラウスの「音楽に進歩派は存在するか」と称する小論をひもとく。

私は、現代の出来の悪い交響詩なんぞよりはベートーヴェンのエロイカの方が好きだという人たちを反動呼ばわりするつもりはさらさらない。現代のつまらぬオペラをひとつ見るより「魔弾の射手」を12回続けて見たいという人たちとて同様である。そういう気持ちからすれば、私自身だって反動だろう。私が言う反動家、我慢のならぬ反動家とは、リヒャルト・ワーグナー先生がゲルマン神話からオペラの題材をとっておられるから、今後は聖書から題材をとるのは禁止すべきだなどと言い出す手合いである(私はむろん我田引水的に発言をしているのである)あるいはまたベートーヴェン先生がナチュラル・トランペットにやむなく主音と属音だけを吹かせたというただそれだけの理由で、バルヴ・トランペットは旋律楽器と見なすのが正しいと教えたりする手合いである。要するに大きな規則表を楯にとって、なにか新しいことをやろうとする人間、やれる人間を見つけるやいなや、禁止だの駄目だの言い出して人の努力をおしとどめようとする連中すべてを反動と呼ぶのである。
日本リヒャルト・シュトラウス協会編「リヒャルト・シュトラウスの『実像』」(音楽之友社)P30

いつの時代も、そしてどこの世界においても、保守と称する老獪の醜さよ。
作曲者は外面的な輝きだけを目指したわけではないことがこれらの言葉の裏から読みとれる。ならば、音楽の内面を抉るようにもっと肉薄したうねりと有機的な響きが欲しい。

 

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