
秋の日の黄昏時は、何と心に滲みることか! 嗚呼! 苦痛なまで心に滲みる! なぜといって、それは数々の甘美な感覚を備えていて、茫漠たるうちに、而も緊迫した趣を欠いてはいないから。蓋しこの永劫無窮の切尖にもまして、鋭く研ぎ澄まされたものはよもあるまい。
「芸術家の告白」
~ボードレール/三好達治訳「巴里の憂鬱」(新潮文庫)P15
夢みる少年、アルベール・ルーセル。
彼は8歳で孤児になった。
孤独な少年にとってピアノが友だちだった。
8歳で孤児となったアルベール・ルーセル(1869-1937)は、ピアノを弾くことに慰めを見出しました。ベルギー海岸での休暇は、遠い冒険への夢を掻き立て、ジュール・ヴェルヌの小説を読むことで精神力を養い、そのことで彼は大海原への憧れを強くしました。アルベール少年は船乗りになることを夢見ていました。10代の彼は、生まれ故郷のトゥールコアンを離れ、海軍兵学校に入学するつもりでパリへと向かいました。仕事を続けながら、彼の揺るぎない音楽への情熱はますます強くなっていきました。見習い時代、そして後に大海原を縦横に航海する船上でも、ピアノは主な娯楽であり続けたのです。士官候補生だった彼は、数人の友人とトリオやソナタを演奏し、礼拝の伴奏にオッフェンバックのテーマをさりげなく採り入れて乗組員を楽しませたものです。極東への航海から戻った彼は、言葉だけでは表現できないイメージを頭の中で横溢させていました。そこで彼は作曲の必要性を感じ、ヴァイオリンとピアノのための幻想曲をスケッチし、弦楽三重奏とオルガンのためのアンダンテを生み出しました。すでにインド風の歌劇を構想していた1894年、ルーセルは海軍士官としての経歴に終止符を打ち、25歳で音楽の勉強を本格的に始めました。彼はパリに定住し、オルガン奏者のウジェーヌ・ジグーに「繊細な芸術的才能」を見出され、弟子として迎え入れられました。和声と対位法の練習に加え、ルーセルは過去の巨匠たちの楽譜も研究しました。
保守と革新と。
ルーセルの音楽を一言で表現すると「熱烈でありながら抑制された官能」だ。
詩に音楽を付すと歌になる。
言葉を付すとわかりやすくなるというのが世の常だが、実際言葉を付すことによって解釈の幅が広がり、音楽は余計に難しく、そして複雑になる。
何よりフランス語の語調が、音楽に安寧をもたらす。
否、アンニュイな雰囲気を醸すのだ。
20世紀初めに作曲された歌曲は、アンリ・ド・レニエの詩によるものです。それらはすべて、遠く離れた「異郷」と「愛の感情」を反映した自然の魅力を描いています。ルーセルの音楽は、表現が簡潔で、厳格で、控えめであるがゆえにより印象的なものになっています。「重厚さと遊び心、愛、優しさ・・・、ドラマティックでない憂愁、節度があり、感傷的な効果はなく、決して過剰ではない」と作曲家お気に入りのメゾソプラノクレール・クロワザは評しています。
こうして私たちは、「失われた土地」と共に、悔いを後に残すと主張する船乗り(「出発」作品3-1)に出会う一方で、「長い間、離れ離れになった手を見つめながら」(「別れ」作品8-1)別れの苦悩を思い返す船乗りにも出会うのです。あるいは、「大地と空」が織り成す風景(「濡れた庭」作品3-3、ドビュッシーのような音調)や、夕闇の暖かさに消えゆく風景(「秋の夜」作品8-3)は、対照的に「抒情的なマドリガル」作品3-4の「役立たずのフルート」が喚起する、自己との交わりのささやかな喜びを映し出しています。距離とは何か?(2つの中国の詩作品12から第2曲「離れ離れの恋人たち」)、あるいは不在とは何か?(「炎」作品10)、そして時間の経過とは何か?(「脅迫」作品9)、その後、失恋についての陰鬱な2つの歌曲(作品19)に続き、作品20の2つの明るい歌曲が生み出されるのです。
ルーセルはセレナーデを歌う独りの女性に魅了され、愛する人の庭での幻想を官能的に表現しています(「サラバンド」)。彼の作風は、「ロンサールによる2つの詩」作品26(フルート伴奏)でさらに洗練され、同時に繊細で幽玄なものとなり、続いて、古代ギリシャを想起させる五音音階で彩られた「アナクレオン頌歌」作品31&32から、東洋の旋法を使った歌(2つの中国の詩作品35)、あるいは黒人音楽と戯れる歌(「夜のジャズ」作品38)と、さらに進化、発展していったのです。
(フランソワ・ローラン)
冒頭の「凶兆」作品9から、ルーセルの創造する音楽に文字通り「狂気」を思う。
しかし、その「狂気」には、あくまで抑制された官能が刻まれるのだ。
(クルト・オルマンの歌唱がまた素敵)
パトリック・ガロワのフルートが寄り添う、ロンサールによる2つの詩作品26は、幽玄な東洋的雰囲気を醸し、マディ・メスプレの歌唱がさらに輪をかけて神秘的な様相を披露する。
あるいは、「夜のジャズ」でのメスプレの歌も暗澹たる音調ながら、内なる明快さが宿る。何と喜びに満ちていることだろう。
この人生は一の病院であり、そこでは各々の病人が、ただ絶えず寝台を代えたいと願っている。ある者はせめて暖炉の前へ行きたいと思い、ある者は窓の傍へ行けば病気が治ると信じている。
私には、今私が居ない場所に於て、私が常に幸福であるように思われる。従って移住の問題は、絶えず私が私の魂と討議している、問題の一つである。
「どこへでも此世の外へ」
~同上書P171
