遊びの心

明日の墨田区のクラシック音楽講座ではモーツァルトを採り上げる。
今期は、とにかく楽曲1つを必ず全曲聴いていただくという趣旨で進めているが、受講者には概ね好評のよう。しかし、壇上に立つ側としてはどうしても2時間という枠の中で収めなければならないことが結構なハードルとなる。
毎回試行錯誤、明日は初めてパワーポイントなどを使ってやってみようかなどと思案中。(こういうことがまた愉しいのである)

早6月。
毎日不安定な天気だけれど、身辺はなかなかに面白い。いろんな出逢いがあって、出来事が起こって。「できないこと」は無理してやらず、「できること」で愉しく、かつ皆様にご奉仕を(笑)。

モーツァルトの生涯を少しばかり復習してみた。
ひとつ思ったこと。モーツァルトの作品はどれも超のつく名曲揃いだが、最晩年の諸作を除いては大抵「誰か」に請われて作ったものだということ。決して自身の独断的で衝動的な創造力によって現出したものではないのである。わかりやすく言うと彼にとっての作曲というのは「食うための仕事だった」ということだ。
しかし本当に「食べるため」だけだったのだろうか?うん、本当にそうだと僕は思う。
でも、彼には「遊びの心」という才能があった。残された手紙の類、幼稚で稚拙で、下品でという内容のそれらを見るとヴォルフガングがいわゆる常識人ではなかったことが手に取るようにわかる。(ここでは、「常識」という言葉そのものを疑わなければならないが、今日のところはそこまでの言及は止すことにする)

「常識」なんていうのは人によって、土地によって、時代によって変わるものだから(普遍的なものではない)、そのことをものさしにすることがそもそも間違っているけれど。
そんな非常識人が生み出した「音世界」は若い頃のものも、晩年のものもすべてが光彩を放つ。

ティーンエイジャーのモーツァルトがザルツブルクの大司教コロレードに依頼されて書いた数々の教会音楽は実に(意外に?)美しく魅力的。神々から離れて、現代の世俗的な(娯楽的な)音楽として聴いてみても実に素晴らしい。

モーツァルト:
・ミサ・ブレヴィスK.140&K.192
・ミサ・ロンガK.262
ドロテア・レシュマン(ソプラノ)
エリーザベト・フォン・マグヌス(コントラルト)
ヘルベルト・リッペルト(テノール)
ジル・カシュマイユ(バス)
アルノルト・シェーンベルク合唱団
ニコラウス・アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス

アーノンクールの清澄な音楽が身に沁みる。
この「直截性」がとにもかくにも響く。

今宵、ふみ君とクラヲタ談義(サシではお初)。数時間、いろんな話で盛り上がった。
縦横無尽に様々な話の中、聴きづてならない話題が。
何と、アバド&ルツェルンの2009年の公演の実演を2度聴いたのだと。そう、あのユジャ・ワンとのプロコフィエフとマーラーの「巨人」を!!彼曰く「最高だった」と。
嗚呼、羨ましきかな。


8 COMMENTS

雅之

おはようございます。

ふみさんはインバルを、まだお嫌いなんでしょうか(笑)。

・・・・・・近代になって、国民国家というものができて国民が均一化したという有力な議論があるけれども、あれは、生活の細部が次第に同じになっていった、たとえばみなが「朝日新聞」を読むとか、NHKのニュースを観るとか、そういうことであって、そもそも藝術として小説を読む、などということは、日本人でいえば十万人くらいの人しかやっていないことだし、その十万人の中でも、さまざまな人がいる。老若男女、という違いもあるし、もてる男女もてない男女というのもある。たとえば藝者遊びをしたことのない人に、川端康成の『雪国』がどれほど共感をもって読めるかとか、結婚したことのない人に、結婚生活の不幸を描いたトルストイの小説がどれほど分かるか、もてない男に、二人の女に惚れられて悩む男の小説が共感できるか、といった具合に、ある文学作品をいいと思うか、共感するか、ということは、読者の側の年齢や経験、素質、趣味嗜好といったものに、かなり大きく左右される、と私は思っている。もちろん、たとえば高校生の私が、川端の『眠れる美女』という、老人の性を描いた小説に感動したように、思いがけないところで、かちりと嵌まる場合もある。
 だからといって、文学作品のよしあしについて議論するのが無駄とは言わないが、結局それは、学問上の論争ではないし、好き嫌いの問題に帰着せざるをえないのである。あるいはむろん、優れているのは認めるけれども、好きにはなれないということだってあろう。・・・・・・
「『こころ』は本当に名作か―正直者の名作案内」小谷野 敦 (著) (新潮新書)
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8E%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%8F%E3%81%AF%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E5%90%8D%E4%BD%9C%E3%81%8B%E2%80%95%E6%AD%A3%E7%9B%B4%E8%80%85%E3%81%AE%E5%90%8D%E4%BD%9C%E6%A1%88%E5%86%85-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E9%87%8E-%E6%95%A6/dp/4106103087/ref=sr_1_cc_1?s=aps&ie=UTF8&qid=1338591583&sr=1-1-catcorr
より

結婚生活21年で、高3息子と中3娘を養育しなければならないサラリーマンの私と、お気楽な自由業で中年独身の岡本さんと、若い裕福な出のサラリーマンで目下恋の駆け引きに熱中している(?)ふみさんの、3人の感性が大きく違っている・・・、これは当然の帰結なのです。

同じ「フィガロの結婚」の名舞台
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1497129
を鑑賞したって、大学生のころと現在とでは、共感するポイントがかなり異なってきているのも自覚でき、興味深いと思っています。今じゃ、フィガロやスザンナよりも、アルマヴィーヴァ伯爵や伯爵夫人ロジーナのほうに共感するウエートが重くなってきています。

芸術に対する価値観や共感する部分が鑑賞する年齢により変化するというのは、どんな名作を読みなおしても、どんな傑作といわれている芸術作品を鑑賞しなおしても、極めて日常よく実感することです。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
今度はぜひ雅之さん交えて三つ巴といきたいところだね、と昨日ふみ君とは話しておりました。
まさにコメントでいただいたような会話が炸裂しておりましたので。

で、ご指摘のインバルについてですがどうやら一昨年聴いたブル6に関しては好きでないということで、ショスタコやマーラーについては大絶賛してました、彼は。基本的にインバルは好きみたいですよ(この辺りの事情はふみ君のコメントを待ちましょう)。

まぁ、確かに3者3様で立場が明確に違いますからね。(とはいえ僕は決してお気楽ではありませんよ・・・笑)

>今じゃ、フィガロやスザンナよりも、アルマヴィーヴァ伯爵や伯爵夫人ロジーナのほうに共感するウエートが重くなってきています。

そのお気持ち、よくわかります。

>芸術に対する価値観や共感する部分が鑑賞する年齢により変化するというのは、どんな名作を読みなおしても、どんな傑作といわれている芸術作品を鑑賞しなおしても、極めて日常よく実感することです。

はい、同感です。

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ふみ

こんばんは。

昨晩はお誘い頂き誠にありがとうございました。あまりに楽し過ぎてずっと私ばかり喋ってましたよね。。。岡本さんの傾聴力には脱帽です。

私、インバル嫌いだなんて言いましたっけね?確かに彼のブル6は少なくとも私は決して評価しませんが、彼のショスタコなんてめちゃくちゃ大好きです。音を音として置き方がショスタコには最高にマッチしてて。

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ふみ

あれ、打ち間違いでしかも途中の状態で投稿してしまいました。失礼しました。

結局のところインバルは適性によっては素晴らしい指揮者だと思います。まぁ、音楽なんて人の好みによりますから、岡本さんのようにあのブル6を評価する人がいらしても全く結構なことだと思います。あの演奏は素晴らしくても自分の理想とする音楽像に合致しなかっただけですから。

またこれからも是非、定期的にお会い出来たら大変光栄です。コンサートも是非!
重ね重ね、昨晩は本当に楽しいひと時をありがとうございました。

p.s. 私はアバドのマーラーより朝比奈のブル5の方が何倍も羨ましいです(笑)

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雅之

皆さんが実演を聴かれたインバル&都響のブルックナー6番
http://classic.opus-3.net/blog/?p=2748
その後私はCDで聴きました。

http://www.hmv.co.jp/product/detail/3997029

岡本さんや宇野某が何と褒めようが、僕は二楽章の第二主題が出てきた辺りで幻滅して集中力が切れました(笑)終楽章も酷かった…
別に愛着の無い音楽ならまだしも僕が愛して止まないブル6でしたからなお一層だったんだと思います。

まぁ、音楽なんて人の好みによりますから、岡本さんのようにあのブル6を評価する人がいらしても全く結構なことだと思います。あの演奏は素晴らしくても自分の理想とする音楽像に合致しなかっただけですから。

因みに、僕は大学時代、「部活にのめり込み過ぎだ!! もっと勉強せよ、いい就職できんぞ!!」という父親の反対をも押し切って、ぶれないで頑張って練習して、学オケ定演で弾き通した時のブル6が、今でも世界最高だったと信じていますよ(笑)。
無論、インバルよりもね…(笑)。

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岡本 浩和

>ふみ君
こんばんは。
いやあ、昨日は楽しかったです。
こちらこそ喜んでいただけて良かったです。こういう会は定期的にやりましょう。
仕事ばっかりじゃ目が死んでしまうからね(笑)。

>私はアバドのマーラーより朝比奈のブル5の方が何倍も羨ましいです

そりゃそうかもね!誰しも他人の経験が羨ましいものなんだよね。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
どんな演奏も、自分で演られたのには適いませんわ。
そのブル6聴いてみたいところですが、たとえ録音が残っていたとしても録音じゃ伝わりません。
誤解を生むだけですね。
インバルのブル6も同じくです。

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アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » 悦びでいっぱい

[…] ザルツブルク時代のモーツァルトは、大司教からの指示でミサ曲など教会音楽をたくさん書いたことはいつだったか書いた(気がする)。いろいろな制約の中で生み出されたそれらの宗教音楽は、有名無名含めて数多あるが、この手のジャンルの音楽はなかなか聴く機会に恵まれないためせいぜい音盤などで触れるしか方法がほぼないように思われる、しかし、例えばパイヤールがかれこれ50年近く前にアランと録音した「教会ソナタ」などは、どちらかというと世俗音楽的なニュアンスに富んでおり、素人の僕の耳からするとセレナードのような機会音楽とほとんど変わらないように聴こえ、信仰心云々というよりどちらかというと仕事として作曲していたのかなとふと感じさせられる(バッハの場合は仕事であることには違いないが、そこには極めて深い神への奉仕の心と忠誠心が投影されていることが明らかだからその違いに余計にそう感じる)。 ただし、それは、モーツァルトに宗教心がなかったということではない。何だか、どんな音楽を書いても人心の深層にものすごい影響を及ぼすことは間違いないわけだし、そういう想いがあるのは当然なのだけれど、どうやら「遊び心」に溢れていることがそんな風に感じさせてくれる原因なのかもなとも考えた。 […]

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