ここのところクラシック・バレエなるものを再評価する自分に気づく。
決して女々しいものと烙印を押していたわけではないのだが、管弦楽作品としてのバレエ音楽については随分熱心に聴いて来たものの、こと舞台となると(映像も含めて)どうもお尻がかゆくなるというか勝手な苦手感を若い頃から持っており、残念ながら真面に正面から取り組もうとしていなかった。
しかしながら、ゲルギエフの棒によるマリインスキー劇場の「白鳥の湖」を観るに至り、背筋に電気が走るような感動を、少なくともこのバレエに関して初めて味わった。
こういうのは本当に稀な体験。早速チャイコフスキーのほかのバレエ作品についても研究しようといくつか仕入れる予定だが、こうなったら20世紀のストラヴィンスキー、プロコフィエフのものなども徹底的に鑑賞し尽くそうと目論んでいるところ。
そもそもチャイコフスキー以前というのは、バレエ音楽というのはあくまで舞踊の伴奏に過ぎず、リュリやラモー、あるいはグルックというフランスおよびオーストリアの作曲家たちが創作し、世に受け入れられていたのもオペラの一部としてのバレエだったわけで、舞台総合芸術としてのバレエを見事に創造し、世に知らしめたのはまさにチャイコフスキーの最大の仕事だったということで、今更ながら彼の類稀なる力量に舌を巻く。
そう、チャイコフスキーなくして、20世紀のストラヴィンスキーやプロコフィエフは愚か、バレエ・リュスの存在もなかったのでは・・・。そうなるとドビュッシーやラヴェルの名曲も世に出なかったわけで、これはもう本当に大変なことだったと、しつこいが再確認するのだ。
ということで、バレエ作品そのものはこれから少しずつ勉強してゆくということで、本日のところはストラヴィンスキー自作自演の音盤を聴いた後、先日来お借りしている「日本フィル・JOCXアーカイヴス」からの衝撃の1枚を。
そもそも昭和43年というとストラヴィンスキーはまだ存命で、ということはまさに現代音楽ということになる(東京文化会館をほぼ埋め尽くす日本の聴衆の最後の熱狂的な拍手を観るにつけ、この難曲をあの頃に受容できていたことに感動してしまう。我々日本人の芸術的センスは相当に高い)。それを日本のオーケストラが、しかもディアギレフと直接親交のあったマルケヴィッチの棒によって演奏するというのだからこれはもう当時のクラシック音楽界における画期的な出来事だったであろうことが容易に想像できる。
演奏は、吃驚するほど緊張感に富む。それに技術的にもほぼ万全。指揮者の気迫がそのまま形となり、この不世出の名作と必死に対峙する各奏者の姿が画面に映し出されるや、言葉にならない言葉が口から・・・(笑)。いやあ、すごい(確かに腰を抜かした・・・笑)。
ところで、ラヴェルの「ダフニス」も実に繊細なフランス的表現に終始しており、こういう美しさをどうやったら引き出せるのか本当に不思議。これもやっぱりマルケヴィッチという指揮者であるからこその為せる業なのだろう(僕が1歳を迎えて間もない頃の映像だということにも何だかシンパシーを感じる。こういう映像が残っているということが奇跡)。
こんばんは。
なんだかね、ご紹介の映像の時代って、我々にとって神話の時代なんですよね。
ちょうど、「ウルトラQ」から「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」が生まれた時代・・・、どう考えても、ほとんど「神話の時代」です(笑)。
>チャイコフスキーなくして、20世紀のストラヴィンスキーやプロコフィエフは愚か、バレエ・リュスの存在もなかったのでは・・・。そうなるとドビュッシーやラヴェルの名曲も世に出なかったわけで、これはもう本当に大変なことだったと、しつこいが再確認するのだ。
おっしゃるとおりですね。チャイコフスキーと、もうひとり、ディアギレフ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%AE%E3%83%AC%E3%83%95
にもまったく同じことが言えますね。ふたりとも同性愛者だったようですし・・・。
愛読サイトに、「マルケヴィッチとディアギレフ」という面白い記事を見つけましたよ。
http://www.seikaisei.com/cond/markvtch/diagilev.html
>雅之様
こんばんは。
>我々にとって神話の時代なんですよね。
あー、おっしゃるとおりです。60年代の大学紛争といわれるあの時代はほんとに神話ですね。
うーん、ディアギレフ!
ようやくニジンスキー版の「ハルサイ」と「火の鳥」の映像を仕入れまして、長年の渇きが癒されそうです。
サイトのご紹介もありがとうございます。
勉強させていただきます。