
優勝を期して臨んだ1927年1月の第1回ショパン国際コンクールで、結果的にショスタコーヴィチは入賞を逃した。コンクール終了後のコンサートで得た111ドルに40ドルを足してベルリンを旅した彼が次に目指したのはパリだった。
「昨日、モーパッサンをたくさん読んだ。そこでこの500ルーブルでパリに出発する決心をしました。何がなんでも行きます・・・毎日、愛国的な音楽を4ページずつ書いて、はやる気持ちを抑えています、パリへ! パリへ!」
だが、パリ行きの申請は却下された。1年半近く待たされたあげく、タイプ打ちされた1枚のハガキが彼の夢を無残に打ちくだいた。第一次5ヵ年計画や農業集団化によって徐々に国内での取り締まりが厳しくなるなか、国内の芸術家に対する風当たりも徐々に強くなっており、若いショスタコーヴィチはおろか、マヤコフスキーですらも、西側との往復がままならない状況になっていたのである。
~亀山郁夫「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」(岩波書店)P67-68
環境は徐々に自由を奪っていった。
天才作曲家ショスタコーヴィチと凡夫ショスタコーヴィチの間にあるもの、すべてはその葛藤の中にあった。(そういう点はまさにマーラーと相似形だ)
ショスタコーヴィチの女性経験は、ある意味で同型反復的なパターンの繰り返しである。
~同上書P95
亀山さんの「作曲家としての驚くべき成熟ぶりと一人の人間としての未熟さ、ないし若さとの断絶」という指摘が興味深い。
「純粋に動物的な愛、それは話題にするにも値しないおぞましいものです。・・・この場合、人間は動物とまったく変わるところがありません。いま、もし、妻が夫への愛に冷め、ほかの愛する男に身を委ねるとします。そして二人は、社会的偏見にもかかわらず、公然と同棲しはじめます。この点に何も悪いことはありません。それどころか、恋愛が実際に自由であるということは良いことでもあります。祭壇の前でなされた誓いなどというのは、宗教の持つもっとも恐ろしい側面です。愛は長く続くはずはありません。むろん、考えうる最上のことは、いうなれば、結婚を完全に廃止すること、つまり、恋愛に関する一切の枷や義務を廃棄することです」
1920年代の後半にショスタコーヴィチが母親に宛てて書いた手紙である。
~同上書P95-96
意気揚々と管弦楽が唸る。
ロジェストヴェンスキーの方法も革新的なものだと思うが、そこはやっぱり果敢な挑戦的体制を示さんとするショスタコーヴィチの天才。
挑戦的な問題作「マクベス夫人」と同時期に生み出された才気煥発たる「ハムレット」組曲の、様々なイディオムを用いての音楽は、この時期のショスタコーヴィチの旺盛な創作力の発露。劇伴音楽として抜群のセンスを誇る。ロジェストヴェンスキーの溌剌とした棒がまた生きる。
ショスタコーヴィチがオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』に着手したのは、1930年10月のことで、時期的にはバレエ『黄金時代』の初演とほぼ重なっている。完成が1932年12月であるから、約2年の歳月をかけたことになる(先述の党中央委員会による決議が出たのは、第3幕を書き終えた時点だった)。早書きで知られるショスタコーヴィチとしては一見異様な遅さに見えるが、彼はその間。バレエ『ボルト』、劇音楽『ハムレット』、ショー音楽『死亡宣告』他、映画音楽の作曲に携わっており、オペラの作曲に完全には集中できなかったことが遅筆の原因のひとつとみてよい。
~同上書P123
高踏芸術とパンのための仕事を明確に分けることのできたショスタコーヴィチは、ペテルブルグ音楽院時代のグラズノフの評価通り、モーツァルト以上のモーツァルトだった。
