
実演で聴いたイーヴォ・ポゴレリッチはどれもすごかった。
イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル 彼のモーツァルトを初めて聴いたのはいつだったか?
おそらくその音盤がリリースされて直後だったのではないか。
後の、僧侶のような姿で弾く、型破りのものではない、それでいてポゴレリッチにしか成しえない、渾身のモーツァルト。その意味深いモーツァルトを、時折思い出すように聴くが、都度新しい発見がある。
雪を愛で、ポゴレリッチのモーツァルトを聴いて思ふ いずれにせよこれ以上ないモーツァルトの本心が垣間見える見事な演奏であることに違いはない。多少スタッカート気味に弾ける、モーツァルトの歓びを表現するK.283は本気で美しい。この生々しさ、まるで目の前でモーツァルト自身が弾くかのような即興的ニュアンスに心奪われる。
ぼくだって近いところに好きな人はいる。その人の瞳は、ふだんは灰色がかった青なのに、何かで気持ちが高まり緊張した時は色が変り、目全体の表情が重くなる。その人の高くて円い額の線ときりっとひきしまった口の線も気に入っている。唇はむしろ薄いほうだが、その人が笑うと、目がほそくなる一方で、開かれた唇のうしろの白い恰好のよい歯がとりわけきれいに見える。その人といっしょに歩くのはいつも楽しいが、室内で二人っきりでいるのも悪くない。その証拠に私は退屈したためしがない。これだけ気に入っているのに、私はここでその人の名をあげるわけにはいかない。その理由もいえない。
「ぼくのマドンナ」
~「吉田秀和全集24 ディスク再説」(白水社)P437
吉田さんの意味深な言葉に、なぜだか僕はポゴレリッチのモーツァルトを思った。
ポゴレリッチの弾く「トルコ行進曲」付ソナタK.331第1楽章に染み入る哀感。
それはとても透明で、それでいて強靭な芯を持つ、可憐だが巨大な表現だ。だからこそ、とても本音を綴るのが恥ずかしくなるような、そんな音楽でもある。
ちなみに、人生の中で様々なマリア像に出会った吉田さんは、次のような言葉でエッセイを締めくくる。
けれでも、私がこれよりもっと身近にマリアの現存を感じ続けてきたのは、モーツァルトの『アヴェ・ヴェルム・コルプス』である。これはこの天才が36歳で夭折する年に生んだもので、わずか2分と少々、文字通り、掌の中におさまってしまいそうな大きさしかもっていない。それからこれはマリアのことではなく、キリストの体、処女マリアから生れ、人のため十字架につけられ、脇腹を槍で刺し貫かれ、そこから地と水をしたたらせつつ死んだ真の肉体であり、しかも永遠の生命にほかならぬイエスを歌ったものだ。けれども私はこれを想うだけでも、マリアへの私の思慕がその中に自然に汲みあげられ、言葉にならないが静かでみちたりた歓喜になって、再び私のほうにかえされてくるのを感じないではいられない。
~同上書P440
なるほど最晩年の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」かと、僕は膝を打った。
そして、ポゴレリッチの弾くモーツァルトにもマリアが感じられると思った。
モーツァルトの歓びは、そしてモーツァルトの悲しみはいずれもマリアの投影だ。
