「世田谷おとなの学び場」でクラシック音楽入門講座をもってみて思ったこと。
クラシック音楽愛好者の数は極めて少ないけれど、裾野を広げられる可能性は十分あるということ。すなわち、潜在的ファンはとても多いのだと実感した。
それは子どもがピアノを習い始めたことをきっかけにする場合もある。あるいは、もともと興味はあったけれど、なかなか時間がとれず、仕事や子育てが落ち着いて相応の時間を持てるようになり、かつて興味を持っていた音楽に再び意識が向いたという場合もある。理由は様々だけれど、多くの人たちにそれだけの影響を与える、それが「音楽のもつ力」ということだろう。
オットー・クレンペラーが最晩年に演ったツィクルスの記録。第5交響曲を抜粋で観た。おそらくこの映像は一般市販されていない。かつてクラシカ・ジャパンで放映されたものを録画したもの。しかし、この映像のもつ力の大きさは計り知れない。ほとんどまともに四肢が動かないような状態で老クレンペラーが指揮棒を振る様は、それこそ「不動明王」のように微動だにしない。まさに「ぶれない軸」の体現。
深夜に帰宅し、再度すべてをじっくり鑑賞した。
ひとつ明らかなことは、オーケストラが全精力を懸けて指揮者に奉仕しているということ。そして、指揮者も楽聖ベートーヴェンに命を懸けて奉仕しているということ。「想い」の点がベートーヴェンを媒介にして線となる。これこそ「再現芸術」の究極の形である。
何より感動的なことは、終演直後の聴衆の怒涛の拍手喝采と熱狂。最後の和音が鳴り止まない時点でのいわゆるフライング拍手。決して許されない行為だけれど、この公演の場合は許そう。おそらく僕もその時その場にいたならそうなっていただろうから・・・。
まさに指揮者とオーケストラとオーディエンスの三位一体。
これまで僕の経験から言うとそれは3度しかない稀少体験。ひとつは1986年のカルロス・クライバー&バイエルン国立管の来日公演、ひとつが朝比奈隆&新日本フィルのベートーヴェン・ツィクルス、そしていまひとつが2000年のギュンター・ヴァント&北ドイツ放送響の最後の来日演奏会。あの手に汗握る、つい息をも止めてしまうような緊張感はそう何度も体験できるものではない。
ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調作品67
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1970収録)
このあまりにも有名な第1楽章の第1主題がいかにも感動的に鳴り響くところがすでに神業。もう何百回、否、何千回と耳にしているだろうに・・・。それはそもそもベートーヴェンの音楽のもつ力である。指揮者はそこに命を吹き込む解釈者に過ぎない。第3楽章を経て、アタッカで終楽章に突入する、悠揚たる足並みは他の誰のどんな演奏においても聴けるものではない。解放と喜びと・・・。
ベートーヴェンは人としては多分問題の多い人だったろう。
強情で自尊心が強く、誰にも遠慮なくずけずけとものを言えた人だったと。
ということは、当然敵も多かった。
しかしそのことが、彼の芸術に逆に「革新」をもたらせたことは間違いない。
常識人が考えるような「枠」の中で思考しているうちは新しいものは創造し得ない。変わり者だって一向に構わない。なぜなら、第6交響曲「田園」を聴いても、第5交響曲を聴いても、あるいは第7番や第9交響曲を聴いても、底流するのは確実に「信仰」だから。意識下だろうが(あるいは意識上で)ベートーヴェンはわかっていたはず。すべてはひとつだと。
一日の終わりにそんなことを思った。音楽の力はやっぱり素晴らしい。