ゆく河の流れは絶えずして、ABQのベートーヴェン作品131

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と、栖とまたかくのごとし。

ベートーヴェンの作品131の第14番四重奏曲を聴きながら「方丈記」の有名な冒頭を思った。最晩年の楽聖の自発的創作の頂点とでもいうのか。7つの楽章、いや、7つのパートから成るこの音楽は、1800年代前半の音楽界の一般的常識というものをおそらくことごとく打ち破る。
当時のベートーヴェンの弦楽四重奏曲はいずれもが「孤高の境地」を示す。例えば、第13番作品130は6楽章、そして第15番作品132は5楽章と、それまでにない構成で書かれている。よくよく調べてみると、作曲順は番号順でなかった(作曲順は、第15番、第13番、そして第14番)。つまり、順を追って楽章数がひとつずつ増えているということだ(ついでに言うと最後の第16番作品135は原点回帰ともいうべき通常の4楽章)。

作品番号が入れ替わった理由は何なのだろう?そのことについて詳細に言及されている文献は少ないのでは・・・。ということで独断と偏見による妄想・・・。

作品131の調性は#4つの嬰ハ短調(ベートーヴェンの中では珍しい調性?)。同じ調性で思い出すのは作品27-2の「月光」ソナタ。ソナタと呼びながら、この作品にはソナタ形式の楽章が入っていないという挑戦的革新的作品(ベートーヴェン自身は「幻想風」ソナタと呼んだ)。とかく背景にある恋愛沙汰や、あるいは耳の疾患などがついて回る作品だが、そんな俗的な動機だけから作られた作品ではないように僕は想像する(献呈者であるジュリエッタとのロマンスももちろんきっかけとしてはあるのだろうけれど)。もっと深い内面を追究する精神的な音楽なのではと(「月光」などという名称が何だかロマンティックな印象を後世の人々に勝手に与えてきたのだと思う)。分厚い殻を破り、新機軸を打ち出す。ベートーヴェンの決意と確信と。その意味では彼の「自信作」だ。それから四半世紀を経て、ベートーヴェンの内側にさらなる「革新」の炎が燃え上がった。あの頃のことは、難聴で苦しみ出したあの頃のことはよもや忘れまい・・・(あるいはまた「想う人」があったのか)。そして7つの楽章を持つ、しかも連続で奏される四重奏曲を誰に依頼されるでもなく書き上げる。もちろん調性は#4つの嬰ハ短調。ついでに番号もあえて「月光」と同じく第14番にしてしまえ!そんな風に洒落っ気をもって彼が考えたかどうかはわからないけれど・・・。いずれにせよ、これらの音楽に見出せるのはただ「幸福感」、そして「調和」。型を破らなければひとつにはなれないということか・・・。

少々支離滅裂。それでも僕は作品131と作品27-2の間に不思議な連関を感じる。
そう、「月光」にも同じく「方丈記」冒頭の言葉が相応しい。いずれもが「水の如く流れる」。作品131などは「本体は一貫して水でありながら変化し続ける態」をまさに表すよう。

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131(1983.6録音)
アルバン・ベルク四重奏団
ギュンター・ピヒラー(第1ヴァイオリン)
ゲルハルト・シュルツ(第2ヴァイオリン)
トマス・カクシュカ(ヴィオラ)
ヴァレンティン・エルベン(チェロ)

録音から早30年。アルバン・ベルク四重奏団はすでにないけれど、彼らの録音は不滅だと今日も再確認した。第1楽章冒頭から切れ味抜群の、現代風の即物的な響きかと思いきや・・・、実に澄んだ音色。いや、透明と言った方が正しい。そして、第2楽章に移った瞬間の「すべてが開ける」感じ・・・。流れ流れて生成されゆく水のよう。さらに、中心楽章である第4楽章は聴きもの。この安定感。中庸の響き。何とも言えぬ愉悦。嗚呼、何と安らぐことだろうか。

明日、フィリアホールでの東京クヮルテットの「最後の日本ツアー」に参戦する。メインプロはベートーヴェンの作品131。44年間の活動の最終地点。涙なくして聴けぬかも。

 

 


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