ムラヴィンスキーのシベリウス(VIC-9545)

僕はやっぱり音楽が相当に好きみたい。
そして、たくさんの方々にも音楽を聴く喜び、感動を味わっていただきたいと思っている。だから、講座の前はワクワク・・・。

週末の講座ではハイドンの「驚愕」交響曲を中心に採り上げる。
若い頃聴き飽きるほど繰り返し聴いた名曲。久しぶりに全曲を通して聴いてみようと、マリス・ヤンソンス指揮ベルリン・フィルのヨーロッパ・コンサート2001のDVDを取り出した。ベルリン・フィルは相変わらず巧い。ほかにエマニュエル・パユを独奏とするモーツァルトのコンチェルトやベルリオーズの「幻想」が収録されているが、いずれも緊張感に満ち、ほとんど瑕という瑕のない完璧な、ライブとは思えない演奏が繰り広げられる。指揮棒を持たず、右手と左手を縦横に駆使し、躍動感に富むヤンソンスの指揮姿も見応え十分(この映像については別日に採り上げよう)。そういえば、マリス・ヤンソンスはレニングラード・フィルでムラヴィンスキーの薫陶を受けたんだった。

少し前、シベリウスの第7交響曲をいくつかの演奏で聴き、その中でムラヴィンスキーの演奏について、昔の印象と変わり、「すごくうるさく感じた」旨のことを書いた。特に、トロンボーンの奏するあの幽玄かつ雄大な主題。あの時は、「それほど恐怖を煽る必要があるのか?」と感じたのだけれど、こちらも久しぶりにアナログ盤を取り出して聴いてみたところ、何だか随分印象が違った。確かに、猛烈な迫力の金管群なのだけれど、もっと「柔らかく」、もっと「自然体」に聴こえるのである。他の楽器とバランスよく溶け合っているというか。僕の機器の問題なのか、そもそもこれがアナログとデジタルの差なのか、そこはわからない。でも、間違いなく今日はすごく心を動かされた。

今朝からどういうわけか頭の中でシベリウスのこの音楽が鳴り響いていたということもあるのかも。しかも、例のトロンボーンの主題が脳裏にこびりついて離れなかった。戦いに出るわけでもないのに(笑)。なぜだろう・・・?

朝令暮改・・・。人間の感性、あるいは感覚なんていい加減なものだ。そのときの気分や状態、あるいは天候などの影響も受けつつ物事を判断しているということ。
「完全なるもの」というのは存在しない。どの立場、観点から見るかによっても評価も変わる。セーゲルスタムのシベリウスはすごかった。カラヤンのシベリウスだって美しい。同様にムラヴィンスキー盤は唯一無二、孤高のシベリウス。

・バルトーク:弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽
・シベリウス:交響曲第7番ハ長調作品105
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(1965.2Live)

「調和」と「論理性」を併せ持つシベリウス音楽の最終形。
これほどに凝縮された音楽は珍しい。なるほど、ムラヴィンスキーの解釈は「戦い」だ。それも「自己の内側」との。

老子を思った。
25章「天地に先立ちて生ず」
物有り混成し、天地に先立ちて生ず。寂たり寥たり、独立して改めず、周行して殆れず。以て天下の母と為すべし。
吾れ其の名を知らず。之に字して道と曰い、強いて之が名を為して大と曰う。
大を逝と曰い、逝を遠と曰い、遠を反と曰う。故に道は大なり、天は大なり、地は大なり、王も亦た大なり。
域中に四大有り、而して王は其の一に居る。人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。

シベリウスには、否、ムラヴィンスキーのシベリウスには道がある。
ちなみに、この後CDを聴いたらやっぱり「うるさかった」。アナログ盤に一日の長があることは間違いなかろう。

 

 


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