グールド&ゴルシュマン指揮コロンビア響のバッハ協奏曲第2番ほか(1969.2録音)を聴いて思ふ

私ハ本当ニドウニカシテシマッタ。モウあんどれ以外ノコトハ、私ノドンナ関心モ、ヒカナクナッテシマッタ。トイッテ、私ハ卑怯ニモ、あんどれニ話シカケルコトモ、ヘヤニユクコトモ出来ナイ。モット前ダッタラ、ソレモ出来タカモシレナイノニ、今ハ、ソンナ勇気ナド、マルデナイ。ソノ癖、自分ノ滑稽サヲ笑ウコトモ出来ナイノダ。
辻邦生「廻廊にて」(新潮文庫)P58

グレン・グールドの弾くバッハの協奏曲を聴いて、何だか辻邦生さんのセンス豊かで高尚な文体に溢れる躍動感を思った。
久しぶりにひもといた、彼の処女長編小説である「廻廊にて」には、それこそグールドのようにエキセントリックな、というか、生きることの意味を悟ったアンドレという少女が、ロシア人女流画家マーシャの真の友として登場する。
幼少から病気のため長い間入院生活を余儀なくされたアンドレの言葉には、生きる上での大いなるヒント、普遍的な術が散りばめられるのである(と僕は思う)。

でも何といっても、私の好きなのは、この平衡台を渡ってゆくことだったの。そのころ、すでに、それは、平衡感覚を矯正してゆく快感の追求から、高いところを渡ってゆく緊張感とそれが生みだす快感の追求に変わっていたのね。ある恐怖にさらされている感じ、それは、まるで、嵐の風に顔を吹かれている感じみたいだと思ったわ。緊張して、何もかも忘れて、じっと油汗をにじませて渡ってゆくこと―これほど私に生きているという実感を与えてくれるものはなかったの。このいい知れない抵抗体に向って、自分が、それを身体で突っきってゆくという実感―それはたしかに快感にちがいなかったのだけれど、いったい、この抵抗するものは、何かと考えると、その実態は、どうしても、つかめなかったのよ。恐怖でもないし、義務でもないし・・・。で、最後に、私は、それは、ひょっとしたら、死という厳然とした存在に感じる抵抗感ではないか、と思うようになったの。
~同上書P100

わずか50年という短い人生を駆け抜けたグレン・グールドも少女アンドレと同様の思考を持っていたのではなかったか?何よりこの「高いところを渡ってゆく緊張感とそれが生みだす快感の追求」というものが、グールドの残されたすべての録音、演奏から感じ取れるように僕には思えるのである。特にバッハ。

ほかの女の子たちが、オペラや音楽会や舞踏会で感じる生のよろこびを、私は、まあ、なんと、サーカスなぞで感じたなんていったら、さぞ風変りだと、思われるかも知れないわね。でもそれは本当だったのよ。私はサーカスだけではなく、危険のなかに生きることが本当に生きる価値をもつのだ、と信じこんでしまったの。(いまでも、そう信じているらしいけれど。)私は、すぐ、ほっとしたがる人たち、日々平凡で安全な生活を願う人たち、あのブルジョアたちを、心から軽蔑しはじめたのも、このころからなのよ。生は危険だからこそ高貴であり、それゆえにこそ生きる価値がある、と思えたのね。
~同上書P101-102

「危険のなかに生きることが本当に生きる価値をもつ」。決してオーソドックスとは言えないグールドのどの演奏にも通じる軸。バッハの協奏曲も素晴らしい。

J.S.バッハ:
・ピアノ協奏曲第2番ホ長調BWV1053(1969.2.10&12録音)
・ピアノ協奏曲第4番イ長調BWV1055(1969.2.11&12録音)
グレン・グールド(ピアノ)
チャールズ・リボヴ(ヴァイオリン独奏)
ウラディーミル・ゴルシュマン指揮コロンビア交響楽団

まるで、ピアノのために書かれた作品のように聴こえるところがバッハの先見。同時にグールドの革新。中でも、僕の心をとらえて離さないのはヴァイオリン独奏を伴うイ長調協奏曲第2楽章ラルゲットの愛らしい音調。何という甘美なヴァイオリン独奏、対するグールドのピアノの地から昇り立つ包容力。ここにあるのはまさしく幸福・・・。

私ガ幸福ダッテイウコトヲ、ドウシテ自分ニ隠サナケレバ、ナラナイノダロウ。幸福デイルノハ、悪イコトナノカシラ。デモ私ハ幸福ナノダ。トテモ、トテモ、幸福ナノダ。私トあんどれハ、マダ話ヲ交ワシタコトモナイノニ、二人ノ間ニハ、魂ノ感応ガアルミタイニ、特別ナ磁力ガ働イテイルノダカラ。
~同上書P59

形ではなく、大切なのはあくまで心。
どれほどの想いをそこに(または誰に)託せるかどうかが生きる価値。

 

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