週末、2年ぶりに「早わかりクラシック音楽講座」を開催する。
ピアニストの児島洋子さんのご協力を得て、千代田区一番町のOffice Yoko内サロンにて。お陰様で両日とも満員御礼。今回はどんなお客様との出逢いがあるのか・・・。
特に、これまでにない試みは一切の音響装置を使わず、音楽はピアノによる実演のみという構成(コンサートホールでのリサイタルにナビゲーターとして招ばれたケースはあるが、独立した音楽講座としてこの形式でやるのは初めて)。しかも、テーマが僕の音楽愛好人生の原点であるショパンときたらもう・・・。その日が近づくにつれ僕自身のワクワク感が大きくなるばかり。やっぱり「音楽に浸っているとき」が幸せなんだ、僕は・・・(笑)。
先日、德川眞弓さんのリサイタルでホロヴィッツ編曲による「展覧会の絵」を実演で初めて聴いた。いかにも難易度の高い作品であることはすぐにわかった。それでもその演奏効果の素晴らしさといったら・・・。あらためてホロヴィッツの偉大さを確認した。
ところで、ホロヴィッツはいわゆるショパン弾きではない。厳選された作品群が一見研ぎ澄まされた刃物で鋭角的に料理されるかの如くだが、それでも彼の弾くショパンは、いずれも完璧な技巧に裏打ちされたリリシズムを湛えており、繰り返し聴いて必ず新しい発見がある。
しかしながら、正直なところ僕は若い頃彼のショパンが苦手だった。「英雄ポロネーズ」のそれこそ一切の虚飾を排したあまりに前進的な表現に違和感を覚えた。晩年に録音したバラード第4番もどうにもそっけないように感じられ、すぐさまお蔵入りしたほど。
前に採り上げたミケランジェリに触発されたわけではないと思うけれど、久しぶりにあえてホロヴィッツのショパンを繰り返し聴いてみた(ミケランジェリのマズルカは天から降りるような印象、一方のホロヴィッツのは地から湧くような印象を受けるという意味で正反対だけれど、いずれの音楽にも哀惜感と詩情が半端なく漂う)。少なくとも30年前に僕が感じていた「抵抗感」は完全に払拭されているようだ。レコードの演奏はもちろん変わらない。当時とオーディオ装置は変わったけれど、問題は僕の感覚の方だ。
ホロヴィッツ・ショパン・リサイタル
・ポロネーズ第7番変イ長調作品61「幻想」(1966.4.17Live)
・マズルカ第13番イ短調作品17-4(1971.4.17録音)
・エチュード変ト長調作品10-5「黒鍵」(1971.4.17録音)
・序奏とロンド変ホ長調作品16(1971.4.17録音)
・ワルツ第3番イ短調作品34-2(1971.5.4録音)
・ポロネーズ第6番変イ長調作品53「英雄」(1971.5.4録音)
ウラディミール・ホロヴィッツ(ピアノ)
当時のアナログ盤を取り出した(SOCO-8)。
フィリップ・ラミイ氏は各曲に関するホロヴィッツ自身のコメントを聞き出しており、それが三浦淳史氏により訳されライナーノーツに掲載されている。
マズルカに関してのホロヴィッツの見解。
わたしにとって、マズルカは最高のショパンである。
同感。彼の弾いた「マズルカ」諸曲はいずれも絶品(特にこの作品17-4は奇跡的)。
そして、カーネギーホールでの復帰リサイタルで演奏された「幻想」ポロネーズ!これはこの作品における最高の名演奏のひとつだといまだに僕は信じているが、ホロヴィッツは次のように言う。
この曲において、ショパンは素晴らしい演技をしている偉大な俳優のようであった。彼は次のような情感のすべてにわたっている。―ときにはメランコリック、ときには熱狂的、ときには意気揚々と、ときにはノスタルジック、ときには劇的、ときには抒情的、ときには壮大、ときには荘厳な情感。
そうか!なるほど!!まさに!!!
ならば、かの「英雄」ポロネーズはどうだ?
このポロネーズはツァーの支配下で苦しんでいたポーランド民衆の怒りを反映している、とわたくしは思っている。・・・(中略)・・・この曲は実際時代を問わず、すべての圧政下にある国々のためのポロネーズであり、いまなお自由な人間精神を大切に守っている無数の男女のためのポロネーズなのである。
もっと鷹揚な音楽だと僕は思っていた。実は相当な抑圧から生まれた音楽だとホロヴィッツは解釈しているんだ・・・。
極めつけはあまり知られていないであろう作品16。かつて高校生の僕はホロヴィッツのこの演奏によってこの音楽を知った。最高に素敵な音楽だと、今も思う。
わたしはなぜこの曲がそれほど頻繁に弾かれないのか理解できない―公衆はこの曲を大好きになるだろうに。
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Horowitz Plays Chopin 、私の中三時代の愛聴盤でした、それこそ ホント 盤面が擦り切れるまで繰り返し聴きました。懐かしい・・・
のちに 同じ音源をCDで聴けるからいいやと 深く考えずに手放してしまった 膨大なアナログ・レコードの一枚でしたが、岡本先生が ブログの中で、その 国内盤LPに付いていた ライナー文章の引用を してくださっているのを読みながら 久しぶりに 同じ音源のCDを聴き直していたら、突然 当時のLPジャケットの質感が鮮明に記憶がよみがえり、果ては 当時の私立中学の制服や 自室の雰囲気、同級生の顔まで 勝手に思い出しました。
「序奏とロンド変ホ長調作品16 」、私も当時から 大好きでした。けれど この曲のことを 音楽之友社「名曲解説全集 」の中で 野村光一なる解説者が 「くどくど長たらしいだけの 深みのない作品 」、「序奏は無意味 」、「第一主題の処理がきわめて稚拙 」、「全編を通じて ただ騒ぎまわるだけで、何の計画も秩序もない 」 などと述べているのを読んで、何故そんなことをわざわざ 楽曲の解説書で書くのだろう、こいつ何様のつもりだ と本気で憤ったことまで思い出しました、たぶんホロヴィッツのおかげで(笑 )この曲への愛着には 今も揺るぐものはありません。
素敵なタイムカプセル、今宵もありがとうございました。
>“スケルツォ倶楽部”発起人様
こんばんは。“スケルツォ倶楽部”発起人様も愛聴盤でしたか!!
いや、ほんとに懐かしいです。僕はアナログ盤の多くを20年ほどまでに処分してしまっていたのですが、このホロヴィッツ盤はラッキーにも手元に置いてありました。久しぶりに聴いて、思わず感動してしまい・・・。
野村光一氏の解説は未読なので知りませんでした。しかし、それはひどいですね。なにもわざわざそんなことを書く必要もないのに。
>ホロヴィッツのおかげで(笑 )この曲への愛着には 今も揺るぐものはありません。
同感です。ほんとに良い曲だと僕も思います。
こちらこそありがとうございます。