ルール・ピアノ・フェスティバルでのピアノ連弾による「フィデリオ」全曲(アレクサンダー・ツェムリンスキー編曲)を、それも繰り返し第2幕だけを聴いていてひらめきが降りてきた。冒頭のフロレスタンの嘆き、ここがこのオペラの肝だ。物語的にも音楽的にも極めて啓示的(ピアノ版による器楽演奏を耳にするとベートーヴェンがこのオペラにつぎ込んだ意図、意志がとてもよくわかる)。
フロレスタンは語り、歌う。
身のまわり一帯は荒れ果て、自分以外に何ひとつ生きるものはないのだ。おお何とひどい試練だろう。でも神の意志は正しいものだ。私は神の御心に不平は言いますまい、苦しみを図る秤は神の御許にあるのだから。
人の世の春の日に、幸福は私から逃げ去った。真実を大胆にあえて言ったばっかりに報いはこの鎖です。すべての苦しみに喜んで堪えています。そして私の道を不名誉のうちに終えます。私の義務を果たしたという甘い慰めを胸に抱いて!
そして甘ったるい穏やかに流れる空気を感じないだろうか。私の墓穴は明るく照らされていないだろうか。一人の天使がバラの香気の中に私を慰めようとすぐそばに立っているのが見える。その天使はわが妻レオノーレに、そうだレオノーレに似ている。そしてこの私を天国の自由なところに導いてくれるのだ。
(名作オペラブックス3「フィデリオ」)
何という気高い意思!女性の愛による救済が形になるための源がここにある。フロレスタンの不幸な出来事はすべてこの世の転換のためにあったということだ。
興味深いのは、ガーディナーによる「レオノーレ」第1稿(第1稿では第3幕になる)にはこのレチタティーヴォとアリアの前にナレーションがつけられていること。しかもその内容が・・・、「ハイリゲンシュタットの遺書」やゲーテの「エグモント」から採られているのである。
孤独な静けさと暗闇の中にあるフロレスタンの苦悩。そして、牢獄での無音の生活がますます彼に嘆きを募らせる。
「おお神よ、我に喜びの清き1日をひとたび与えたまえ!長い間、喜びに触れていないので、真の喜びに深く共鳴する術を私は忘れている! おお、いつ、おお、いつ、おお神よ! 私はまだ自然と人間との殿堂の中で喜びを味わうことができるでしょうか?永久に無理ですか?無理か?おお!それはあまりにひどすぎる!」(ハイリゲンシュタットの遺書)
フロレスタンは慰めを必要としない。自己憐憫がないのだ。
ああ、彼は魂で兄弟の言葉を聞くことができたのだ。
「まるで見えない霊に駆り立てられるように、時という太陽の馬車馬は我々の運命といういとも軽い馬車を進ませる。我々としては落ち着いてしっかりと手綱を握り、右へ左へと馬車を操り、ここでは崖を、そこでは岩を避けていくしかないのだ」(ゲーテ:「エグモント」第2幕第2場)
専制と権力に抗して、彼は最も厳しい闘いの責任を自ら負ったのだ!
なるほど「ハイリゲンシュタットの遺書」とこのドラマをリンクさせる妙。そして、エグモント伯爵の言葉を借りてのドラマの真意の追求!
遺書をじっくり読むと以下のような文章に突き当たる。
私の願いは君たちが私よりももっと幸福に心配なく暮らしてくれることだ。君たちの子どもには「徳」ということを勧める。これだけが人間を幸福にする。金ではない。私は経験から言うのだ。みじめな中にあってもこの私を保ってくれたのもそれだ。芸術と同じく、この私を自殺から救ってくれたのもそれだ。
真に深い。この世で経験するすべてが至宝だと。こういう思慮に導いていただけただけでも第1稿をひもとき、繰り返し聴いた価値があるというもの。
ベートーヴェン当時の楽器を使い、当時の奏法による画期的試み。ガーディナーによると「レオノーレ」の資料は3通りあるらしく、それらを具に研究の上で組み直し、演奏しているのだと。当然だが、第1稿の序曲は「レオノーレ第2番」。この実に粗い序曲が僕は好き(ことによると整理され尽くした第3番以上かも)。
※なお、文中「エグモント」の邦訳はこちらのサイトより、「ハイリゲンシュタットの遺書」の邦訳はこちらのサイトより拝借しました。
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