雨が降る。
霧雨のようだったり、時に激しくなったり。
そのお蔭でお日様が見えない、雲に隠れて・・・。
でも確かに太陽はそこにある。
今日は止む気配にない。
それゆえかどうなのか、音楽を聴きながらお日様を想像する。
時折、雲の隙間から目に映る光に歓喜し、自然とはいつどんなときも輝いていることにあらためて気づく。空も水も空気も、彼らは時に激高するもいつも大らかだ。
雨が降り続く。
でも、恵みの雨だ。余計なものが洗い流され、晴れ渡った時の澄んだ空気を想像するだけでまたしても身体中が喜びに満たされる。
すべてがつながる中で、そこには音楽があった。
古の大作曲家に降りた霊感の賜物。音楽はいつどんな時も僕を感化する。必ず何か生きるヒント、智慧を与えてくれるのだ。
20世紀の音楽は今日のような鬱陶しい日に相応しい。
室内で、独り静かに作品に対峙する。それこそ、戦争や対立や、国境や分断や、世界中が醜い争いごとに明け暮れた前世紀の遺物といえば聞こえは悪いが、しかし音楽家たちがその中に秘めた「希望の声」を何とかして聴きとろうと必死になったとき、それらの音楽から得も言われぬ「歓喜」と「感動」が溢れ出す。
・バルトーク:ヴァイオリン・ソナタ第1番Sz.75(1972.3.19Live)
・ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン・ソナタ作品134(1969.5.3Live)
ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)
いずれの名作も表立っての印象は暗い。いかにも20世紀の混沌とした世界の表象のような様相。でも、これほどに深く、これほどにあらゆる人間の感情を湛え、宇宙森羅万象を内包する音楽たちはあまり見かけない。
特に、ショスタコーヴィチ。公開の初演を記録したこの実況録音盤は、オイストラフとリヒテルの丁々発止の様がリアルに刻印されており、30分ほどを聴き込むだけで相当の緊張感と体力を要す。もちろん気分的にもそうだ。おいそれと繰り返しては聴けぬ。
第1楽章冒頭の、囁きかけるように始まるリヒテルの前奏。そして、それに丁寧に応えるオイストラフの地に足の着いたヴァイオリンの音色。もはやここだけで聴く者は打ちのめされる。この旋律、この足取り、これはもうショスタコーヴィチ以外何者でもない・・・。降参・・・。理由もなく心が震える。この後もショスタコーヴィチ好きには堪えられない瞬間が多発。スケルツォは・・・、ユーモラスに踊る。さらにフィナーレは、真ん中あたりに現れるそれぞれのカデンツァ部があまりに深遠で凍てつくような美しさ。
もちろん楽曲の偉大さは言うまでもない。ただ、それ以上にオイストラフとリヒテルというソビエト連邦の生んだ2大巨頭の演奏が完璧であることは大きい。
バルトークもショスタコーヴィチも雨の日に似合う。
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