フィッシャー=ディースカウの「冬の旅」

すみだ学習ガーデンの講座も最終回のピアノ・コンサートを除きいよいよ今週末で最後となる。半年間12回の講義というのはあっという間で、今になって振り返るとあの曲も採り上げておけば良かったとか、あの時はこういう話も盛り込んでおけば良かったなどと少なからず反省モードに入る。とはいえ、昨年10月からスタートし、ちょうど1年間2期で一旦幕を下ろすことになるが、とても良い機会を与えていただき勉強になった。聴講いただいた皆様、講座前後の準備や後片づけに関わっていただいたスタッフの皆様にまずは感謝したい。またどこかでお会いできることを夢見つつ。

ところで、今度はシューベルトの「冬の旅」である。そうそう頻繁に聴ける(聴いていられる?)音楽でもないのでこれまでごくたまにしか耳にしてこなかったが、ここのところ時間を割いて集中的に聴き込んでますますその素晴らしさがわかった。と同時に落ち込んだ・・・(笑)。わかってはいたものの、何とも表現し難い暗さと孤独感に聴いている方まで影響を受ける。音楽の効用、というか人々の心身に与える音楽の力というのは本当に凄まじいものだ。
亡くなる2年ほど前、シューベルトはヴィルヘルム・ミュラーの連作詩「冬の旅」を読み、ひどく心を動かされた。この詩の主人公に自らを投影し、すぐさま作曲に取り掛かるも、ついには気分が落ち込み、苦しみながら作曲を終えた。そして完成の暁には自ら歌って友人たちに聴かせるが、友のほとんどはそのあまりの暗さに即座には理解できず、辛うじて「1曲だけ『菩提樹』が気に入ったよ」という言葉が出てきただけだったらしい。それに対してのシューベルトの返答。
「いずれ君たちも気に入ってくれるだろう」
(彼のその言葉通り、後には友人のみならず世界中のあらゆる歌手たちが歌い、人々は耳を傾けるようになる)

音楽療法的に、落ち込んだ時には暗い音楽を聴くと良いとされている。
徹底的にその気分に浸り切り、それによって開放するということだろう。
確かに「落ち込んでいる」ことを客観的に自覚することは人が元気になるための薬のようなもの。
落ち込んで苦しくなると言いながら、僕もついつい繰り返して聴いてしまう。
そして、何だか逆に元気になっている自分に気づく・・・。

今年5月に亡くなったフィッシャー=ディースカウがブレンデルの伴奏で収録した映像を観る。

シューベルト:歌曲集「冬の旅」D911
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
アルフレート・ブレンデル(ピアノ)(1979収録)
※リハーサル風景付

全盛期は過ぎているものの、ほとんど動かず表情だけで伝え切る彼の「歌」はやっぱり絶品。音だけでなく映像で確認し、「冬の旅」の主人公の心の機微がより手に取るようにわかるのが素敵。この歌曲集の真骨頂はやっぱり後半にある。中でも第20曲「道しるべ」以降の5曲が肝だ。主人公は自分の内側に神を見出す(第22曲「勇気を!」)。それも束の間・・・、現実世界に絶望し(第23曲「幻の太陽」)、孤独な老辻音楽師に自分の姿を重ね合わせる(第24曲「辻音楽師」)。
※Youtubeの映像はいずれもマレイ・ペライアとの協演盤だが、例えば「辻音楽師」をブレンデルのものと比較してみても、伴奏ピアニストの資質がいかに全体に影響を及ぼすかが理解できる。1990年の演奏であるペライア盤との11年の差もディースカウの声質の変化や表現の深みという点で大きな影響はあるだろうけれど、ペライアのピアノはより軽く明るく、ブレンデルとの協演の方がより一体化しているように僕には感じられる。

シューベルトとミュラーはほぼ同時期を生きたが、互いに面識はなかった。もちろんシューベルトが自分の詩に音楽を付けてくれたなんておそらく知る由もなかったろう。
ちなみに、晩年の日記でミュラーは次のように書いている。真に興味深い。
「僕は楽器を弾くことも歌うこともできないが、僕が詩を作る時には、同時に歌っており、弾いているのだ。僕が自分でメロディを付けることができるなら、僕の詩は今よりももっと気に入られることだろう。しかし気を安んじていよう。いずれこの詩の言葉からメロディを聴き取って、それを僕に返してくれる同じ心を持った人物が、現れることだろう」

またもやにわか雨・・・、雷が轟く。


1 COMMENT

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む