
久しぶりにカルロス・クライバーの「椿姫」を聴く。
蝶が舞うような優雅な指揮姿ながら、創出される音は常に切れ味鋭く、その上、推進力抜群の演奏に、やっぱりこれが一番だと内心確信する僕がいる。
どの瞬間も熱がこもり、音楽が生き生きとする様子に、セッション録音とは信じられぬ生命力を思う。
クライバーはミラノから戻るやいなや、1976年5月14日から1週間、ミュンヘンでバイエルン州立歌劇場管弦楽団と《椿姫》のレコード録音を行った。つまり、これからはクライバーと定期的にレコード録音ができると、期待してよいのか? 《ばらの騎士》の録音が結局実現しなかったのは、クライバーもしばしば言っていたように、父親のウィーンでの録音には遠く及ばないと考えていたためだった。《椿姫》の配役は、すべてが1975年、ミュンヘンでのプレミエ上演の顔ぶれと同じではなかった。プロデューサー、ハンス・ヒルシュは、ヴェルディのオペラを提案する段階で、交渉を行うという最初の障害を乗り越えなければならなかった。
~アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 上」(音楽之友社)P457-458
「ばらの騎士」については、本人が考えていたほど父エーリヒの録音の方が優れていたとは言い難い。それは、もちろん名演奏であるには違いないが、結果的に正規で残されたカルロスの3種の「ばらの騎士」がいずれもが素晴らしい出来であり、「ばらの騎士」の最右翼の録音だということを証明する。

序曲から颯爽とした、いかにもカルロスらしい指揮で、3つの幕すべてが推進力に富み、悲劇ながらウキウキするような棒運びで、指揮姿が目に浮かぶほど、(オペラにはうってつけの)絵画的な名演奏なのだ。
クライバーによるこのオペラの録音は、トスカニーニの録音以来最高のものだという評価を勝ち得た。クライバーの解釈はお涙頂戴の次元をはるかに超え、信じがたいほどのドラマ性、引き締まったリズム感、スリムな響きに彩られていると言われた。クライバーの《椿姫》録音は、1998年、ドイツ・グラモフォンの100周年を記念し、CDとしてリマスタリングされて市場に出回り、その音質は比類ないものだった。
~同上書P459-460

本当にその通り!
いまだにこれを凌駕する録音はないのでなかろうか。
トスカニーニが「椿姫」上演の指標とした「センプレ・リベラ」もコトルバスの可憐な歌唱のうちに微かな悲哀が感じられ、実に見事。
ところで、CDの録音データを見ると、1977年1月と6月にもレコーディングが行われているようだが、そのことは以下のように説明されている。
だが依然として、クライバーとレコード録音を作成するのは、簡単な事ではなかった。編集中の試聴で、クライバーはさらなる録音セッションを求め、1977年6月にもう一度、同じプロダクションによる録音が行われた。これは、1977年末にようやく発売されるカセットテープのためだった。
~同上書P460
厳しいクライバー! ただしどの部分が不満で差し替えられたのかはわからない。しかし、カルロスの病気(?)はこの「椿姫」をより高い境地に誘う結果になったのだろうと想像する。真に非の打ちどころのない「椿姫」!
息つく暇のないこのスピード感こそカルロスならではの指揮で、半世紀を経ても「椿姫」のレコード中随一のものだと思う(トスカニーニ盤を難なく超える)。
あるいは、第3幕の前奏曲の優美さと静けさ(第1幕もそうだがそれ以上に)に感服する。
(この第3幕の哀感は作りものとは思えない真実味を孕んでいる)
コトルバス演ずるヴィオレッタの健気な歌。
そして、ドミンゴ扮するジェルモンの巧みな表現に涙が出る。
「死」というものが実に透明で、(ある意味)清々しいものだということを物語る音楽にともかく心が動く。
ちなみに、僕が所有する音盤は西独プレスの初期のもので、日本盤仕様にして2枚組税込み6,201円(!)ということで、隔世の感あり。
