ワルター&ウィーン・フィルのモーツァルト「プラハ」交響曲を聴いて思ふ

art_of_bruno_walter_mozart絶頂期の作品である「プラハ」交響曲の第1楽章冒頭は36小節という長いアダージョの序奏であり、その仄暗い響きは、幸福な時期であるがゆえの内面の不穏な奔流を表しているように僕には思えてならない。しかも、楽想は生涯最後の交響曲である「ジュピター」の第1楽章冒頭主題と瓜二つであるところが肝。片や経済的困窮と心身の不調という「どん底」の時期に生み出された作品でありながら、輝かんばかりの光彩放つ雄渾な音楽であるところがミソ。

ブルーノ・ワルターがいみじくも語る言葉にヒントがあった。

私は、モーツァルトの作品によってわれわれに与えられている、二度とない創造の奇跡をも理解した。すなわち彼にあっては、高貴なものと低俗なもの、善良なものと邪悪なもの、賢明なものと愚劣なものなどのすべてが、戯曲的に真実であり、しかもこれらすべての真実が美になっている、ということであった。
内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏 ブルーノ・ワルター回想録」P292

モーツァルトにあっては外側と内側が反転するのだ。あるいは、自身の現状と正反対の性質をもった作品(否、すべてを包括する音楽だ)をつい創造してしまうとでも言おうか。それこそ、すべてが表裏であり、ついにはひとつであるという宇宙の法則を体現する類稀な音楽家、しかもそれを至高の「美」に昇華することができる天才なのである。

モーツァルトが愛おしい。

モーツァルト:
・交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ」(1936.12.18録音)
・交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」(1938.1.11録音)
・歌劇「にせの花作り女」K.196序曲(1938.1.15録音)
ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ウィーン時代のワルターの音楽は、オーケストラの音色のせいもあろう、または録音会場であったムジークフェラインザールの音響効果のせいもあろう、どこをどう切り取ってもまろやかで豊饒な響きに満ちる。時代が暗黒へと突き進むナチス併合直前の、いまだ古き良き欧州ウィーンの芳醇な香りを漂わす浪漫的モーツァルト。それこそあの時代のヨーロッパであったがゆえの、ワルターの言う「善良なものと邪悪なもの、賢明なものと愚劣なもの」が相見えるのである。

「プラハ」交響曲第1楽章の主部を聴きながら思った。
何という深い音楽。屋台骨となる低弦群を可能な限り強調するワルターの方法に釘づけ。第2楽章アンダンテの、やはり憂いを帯びた哀しみの音楽は、楽章終結を導く逍遥のようなモチーフが大いなる意味を成す。特に、そのモチーフが展開部において低弦で出されるときの働きは目を瞠るものがあり、高音部に引き継がれた際の得も言われぬ恍惚感が堪らない。

ワルター&ウィーンの「プラハ」を聴いて空想した。
どうしてモーツァルトはメヌエット楽章をはずしたのか?
父親の呪縛から逃れ、魂が真に飛翔する直前、そして既にフリーメイスンに入会し「友愛思想」含めた心理を会得していた彼には舞曲が邪魔だった。というより、意図せず「降りてこなかった」のだ。そして、二元(陰陽、光翳、善悪・・・)で構成される世界を音楽で言い当てようと、あえて3つの楽章に託し、しかも、そのことを直接に表現するのを避け、第1楽章冒頭に暗く重い序奏を置いたのである。
何だか「プラハ」交響曲にこそモーツァルトの真髄があるのかも・・・、妙案。

 

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