「人間力向上セミナー」にせよ、「早わかりクラシック音楽講座」にせよ、「就活講座」にせよ、僕は事前には最低限の「アウトライン」を準備することしかしない。なぜなら常に自分自身の緊張感を保ち、初心の気持ちで対峙するためには「型」を限定しない方がいいからだ。その場の空気や聴いていただく相手の様子を伺いながら状況や状態を都度判断し、アドリブでやるからLive 感というものが生まれる。そういう意味では長年の経験や蓄えてきた知識がものをいう。とにかく「引き出し」をいかにたくさん持ち、相手の反応に応じて適確な情報を引っ張り出せるかが鍵となる。
BCJ(バッハ・コレギウム・ジャパン)を主宰する鈴木雅明氏が対談形式で著した「バッハからの贈りもの」を読んでいて、彼が「西野流呼吸法」について言及している箇所があり、なるほどと納得した。
鈴木氏は「アタマでできたものは一番信用できない」という。
西野流でいう「対気」は、相手に合わせて各々全く違う反応を引き出すことをその旨とする。一人一人別の人間なのだから当たり前のことなのだが、サービス一つとっても最近はマニュアル化し過ぎている。ある時、新幹線の中で、順番にコーヒーを渡して「お熱いので、お気をつけください」と言ってきたサービス嬢が、鈴木氏がアイスクリームを買ったのに、「お熱いのでお気をつけ・・・」って、ここまで言って、気がついたというエピソードを例に喩え、それを頭のマニュアル化の典型だという。「呼吸法」は一人一人の凝り固まった身体と頭を解放するらしい。そして、音楽の基本も同じで「身体ですべてを理解できるようになること」が重要だと畳み掛ける。そういう意味では、バロック期は今のロックやジャズなどと同様、演奏者の即興性に委ねられていたゆえ、音楽がその場の聴衆や状況によって「今その瞬間」に生み出されているという緊張感とHotさを持っていたのだろうと推測できる。
午後、早稲田にある「預言カフェ」に行く。その予定はなかったのだが、相方から突然電話が入り急遽行くことになる。待つこと1時間少々。550円でコーヒーを1杯飲み、例の「預言」とやらを聞く。「なるほど!」という内容。事前に注意書きを提示されたが、『「占い」ではないので、語られた事柄はあなたを励まし、導きを与えるものであり、無条件でその事柄が起こるものではない』ということ。意外に面白い。
ブラームス:交響曲第4番ホ短調作品98
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団
その昔、高校生の頃、僕はフルトヴェングラー盤(1948年)を愛聴していた。友人にワルター派の輩がいて、ブラ4に関しては絶対にワルターだという。僕は盲目的にフルトヴェングラー派だったので、「そんなはずは・・・!」という想いから最初はその言葉を聞き流していた。
しかし、初めて聴いた時、最初の一音からその清澄で流麗な(それでいてロマンティックな)音の調べに惹き込まれてしまう自分がいた。確かにブラームスを聴く、という観点からいえば、ワルターの方が正当で、演奏も上で録音も上々である。フルトヴェングラーのはある意味恣意的なアッチェレランドなど、形式の枠を明らかに逸脱している要素もあるにはあるので、一般的にはワルター盤がおすすめだろう。終楽章のパッサカリア(=シャコンヌ)は最初はわかりにくいが、一度ものにすれば一生の宝になりうる名曲。J.S.バッハのカンタータ第150番の終曲をモチーフにして書かれている。
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