King Crimson “Beat”を聴いて思ふ

king_crimson_beat音楽に「信仰」はあるのか否か。そんな話になった・・・。
中世・ルネサンス期以前の音楽家同様、20世紀の作曲家たちにも果たして「信仰」はあったのかどうなのかという話・・・。正確にはもちろんわからない。本人に聞いていないから。それゆえに、ここからはいつもの空想。

音楽の源流のひとつである「グレゴリオ聖歌」は、単旋律のシンプルな音楽ながら僕たちの魂にまで届く「パルス(律動)」を秘める。ここにあるのはやはり(特定の)主への心からの「信仰」だ。ならば、アントン・ウェーベルンの場合はどうか?この人の音楽は、音符を切り詰めて、最小限の音で思考や感情、あるいはスピリッツを表現しようとする、西洋古典音楽の行き着いた終着点であり、間違いなく「信仰」はあった(はず)。もちろんそこには「パルス」もあり、「歌」も聴こえる。しかし、ひょっとするとその「信仰」は人格的神に対するものでなく、森羅万象、八百万への「尊崇」に近いものなのかも。なるほど、その意味ではウェーベルンの「信仰」は「宗教的なもの」ではなくあくまで「哲学的なもの」であり、ゆえに彼の音楽は一般大衆に正面からは受け容れられ難いのだ。とてももったいないのだけれど。

80年代に突如復活したキング・クリムゾンの音を久しぶりに聴いて思った。
当時なぜ古くからのクリムゾン・ファンはそっぽを向いたのか?単に、エイドリアン・ブリューやトニー・レヴィンというアメリカ系のミュージシャンがメンバーに入っていたからという理由だけでは説明がつかない。
僕は思う。
70年代のクリムゾンは「哲学的なもの」を志向していた。そして、クリムゾン・フリークなる人々も同じくいつまでも「哲学的なもの」を求めていたのだ。
そんな中、時代が進むにつれ、特に90年代末頃から世界はますます混迷を極め、人々が求める音楽は一層「信仰篤いもの」に移っていった。そう、小難しい「哲学的なもの」からわかりやすく身を委ねやすい「宗教的なもの」へと変化していったのである。
そこをロバート・フリップは見逃さなかった。いや、というより予知していた。
大衆が求めるのはもっとダンサブルな、そう、心に直接響く「宗教的な」音楽なんだと。

King Crimson:Beat

Personnel
Robert Fripp (guitar, organ, Frippertronics)
Adrian Belew (guitar, vocals, additional drums)
Tony Levin (bass guitar, Chapman stick, vocals)
Bill Bruford (drums)

ここには土俗的、宗教的パルスが潜む。これ以上ないダンス・ミュージック。
特に、インストゥルメンタル曲の” Satori In Tangier””Requiem”において、まさにタイトルに示される「宗教的なもの」がポリリズムの極致的方法によって表現されるとき、絶大なるエネルギーとパッションが放出される。
ブリューやレヴィンの織りなす極めて精巧なリズムとダンサブルなメロディは、フリップの描いた「その後の世界を席巻し、人々の希求する音楽」を見事に体現したのだと断言して良い。

こと音楽の歴史において、20世紀後半にはもはやクラシック音楽の居場所はなかった。
現代において人々を鼓舞する音楽は、ジャズやロック音楽や、そういうものだった。しかも、電気の力を借りて「パルス」と「歌」が一層強調されたものと化し、踊れなければ音楽ではないといわんばかりに作品は極めてダンサブルになっていった。

その萌芽が再生クリムゾンの”Beat”というアルバムにある。すでに30余年前のことだ。
ロバート・フリップの先見ここにあり。

結論。音楽に「信仰」はある。しかし、その性質は「宗教的なもの」から「哲学的なもの」、もっと弾けた言い方をするなら「霊的(スピリチュアル)なもの」へと変貌していった。このことはウェーベルンにも通じる。

 

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