ヴァント指揮ケルン・ギュルツェニヒ管のブルックナー交響曲第8番を聴いて思ふ

bruckner_8_wand_gurzenich_1971156ギュンター・ヴァントのブルックナー8番が実演で聴けなかったことは人生の痛恨事。年を経るにつれ彼の音楽は透明を極め、何ものも介在しない純粋かつ絶対の音楽がいつも僕たちの前で鳴り響いた。例えば、今もってブルックナーの9番は、オペラシティコンサートホールで体験した最後の来日公演のパフォーマンスが最美。

ブルックナーの「第8」による高揚のあとの数日は、日常の空虚さへの急激な転落によってひどい日々となりました。この肉体的、精神的な虚しさはほとんど筆舌に尽くしがたく、耐えがたいほどです。それだけに私は、自分が少しでも理解され人間的な優しい行為を示してもらえると、とてもありがたいことと思うのです。
(1971年3月18日付、ギュンター・ヴァントのクルト・ハッケンベルク宛書簡)
ヴォルフガング・ザイフェルト著/根岸一美訳「ギュンター・ヴァント―音楽への孤高の奉仕と不断の闘い」(音楽之友社)P241

ケルン市音楽総監督の就任25周年記念行事でのコンサートで、聴衆は最初は控えめに、やがて熱狂的な喝采を送り、多くの新聞が並はずれた演奏だと評したという。それにしても高揚の後に急激な鬱状態があったというのは衝撃的事実。

ちなみに、この記念コンサートの模様は西部ドイツ放送によって収録され、後にディスク化されている。おそらくヴァントの最初の「第8」のレコードだろう。録音のせいか妙に強調された金管がうるさく、まだまだ雑味の多いブルックナーだが、明らかにギュンター・ヴァントの8番がここに在る。何より終楽章コーダの圧倒的大伽藍は、最晩年のものに負けず劣らずの精神性をすでに獲得している。

・ブルックナー:交響曲第8番ハ短調(ハース版)
ギュンター・ヴァント指揮ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団(1971.3.10Live)

聴くべきは音楽がインテンポで滔々と流れ行く第3楽章アダージョ。ヴァイオリンと木管群、そしてトロンボーンによって奏でられる第1主題にハープのアルペジオが絡むシーンのあまりの美しさに感激。あるいは、テノール・テューバによる第2主題の深く重いフレーズにブルックナーの敬虔なる信仰を思う。少なくともこの瞬間のヴァントの慈悲深い魂はアントン・ブルックナーと同化している、そんな印象。そして、何より素晴らしいのがコーダの浄化と安寧。ここは野人ブルックナーの聖なる側面が見事に音化された部分だが、ギュンター・ヴァントの天才を再確信する。

ブルックナーの作品における構築の巨大な弧線を認識するだけでなく―それだけでもずいぶん時間がかかったのだが―解釈者として落ち着いてそれらを伝達できるようになるまでに、私はずいぶん多くの時間を必要とした。巨大なブロックから成り立っているような彼の交響曲作品に向けて私をほとんど非現実的といえるほどに突き動かしてゆくもの、それは―私がある別の機会に試みた表現でいえば―この音楽における宇宙的な秩序の投影であり、それは人間的な尺度では測りがたいものなのだ。それゆえ、ブルックナーの音楽をこの音楽の創作者と、つまりアントン・ブルックナーという人間と同一視するのは、私にはとても困難である。私が試みているのは、ブルックナーの音楽のこのような背景を、言い換えれば神的な秩序のこのような反映を、明確にさせること、明確に作り上げることである。
~同上書P257

ブルックナーの音楽には何ものも介在しないという、まさにそのことをヴァントは明言する。時間がかかったとはいえ、こういう意志の上に成り立つブルックナーが美しくないはずがない。

 

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2 COMMENTS

畑山千恵子

ヴァントといえば、北ドイツ放送交響楽団とともに来日して、シューベルト、交響曲第7番「未完成」、ブルックナー、交響曲第9番を指揮したコンサートを思い出します。ステージ・マネージャーに支えられて出てきたことも思い出しますね。

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