ゲルギエフ指揮ロッテルダム・フィルのプロコフィエフ「イワン雷帝」(1996.9録音)を聴いて思ふ

prokofiev_ivan_the_terrible_gergiev243わかりやすいものはどこか「古臭さ」を感じさせる。
その時代の、そしてその地域の大衆に向けた作品は、その時代であったがゆえの必然性はあるものの、時を経るにつれ古めかしいものになる。時代の空気に流されず、普遍性を獲得するには何事も「新しく」なくてはならぬ。

1937年、「芸術の繁栄」という随想の中でプロコフィエフは次のように書く。

この実りの多い年に書かれたわたしの作品では、わたしは明確さと旋律性を追求した。同時に、おなじみの和音と曲をごまかして使うことを徹底的に避けた。
明確さは古くなく、新しくなくてはならない。
田代薫訳「プロコフィエフ自伝/随想集」(音楽之友社)P174

体制に迎合するべく「わかりやすいもの」を生み出すことを念頭に、必ず挑戦をするのが彼の信条であったようだ。とはいえ、ソヴィエト連邦という環境が求めた作風というのは、たとえ作曲家が新しい挑戦をしようとも今となっては古びた印象しか与えない(ように僕は思う)。
1933年の「ソヴィエト音楽」に掲載された「メモ」。

ここソヴィエト連邦では段取りがかなり違い、外国からここへ来た人たちはみな驚く。劇的な作品はたいへん需要が多く、話題性を持つものが要求されていることは間違いない。そして題材が英雄的で建築的でなければならないのは、今の時代の最も特徴のある一面である。
~同上書P161

僕にはこの言葉の行間に、どうにも抑圧された作曲者の苦悩が見えてならない。
セルゲイ・エイゼンシュテイン監督作「イワン雷帝」のための音楽をスタセーヴィチがオラトリオに仕立てた作品を聴いて考えた。

・プロコフィエフ:オラトリオ「イワン雷帝」作品116(アブラム・スタセーヴィチによる1961年オラトリオ編曲版)
リューボフ・ソコロワ(メゾソプラノ)
ニコライ・プチーリン(バリトン)
マリインスキー歌劇場合唱団
ワレリー・ゲルギエフ指揮ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団(1996.9録音)

残虐極まりない暴君イワン4世の物語が、プロコフィエフの革新的でありながら古びた印象の音楽によって詳細に紡がれる。例えば、最愛の妻アナスタシアの墓前に佇むイワンを描写する音楽の後、「オプリーチニキ(親衛隊)の誓い」の中で合唱によって歌われるロシア正教の聖歌「神よ、人々を護りたまえ」(チャイコフスキーの序曲「1812年」冒頭の主題にも使われる)に涙が落ちる。何という懐かしさ。そして、何という聖なる美しさ。
そして、「カザンの後に!」におけるいかにもモダン・プロコフィエフ的音楽に心動かされる。

ここでの素晴らしさは当然指揮者ゲルギエフの腕によるもの。特に、打楽器の実に有機的な響かせ方はこの人の真骨頂。
とはいえ、さすがにオラトリオ「イワン雷帝」は音楽だけでは相当に疲れる。どこか無理があるのだろう。

 

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