ヴァント指揮北ドイツ放送響のブルックナー交響曲第8番（1993Live）を聴いて思ふ

時折ブルックナーをひもときたくなる。僕の音楽愛好人生の原点である。
昨年逝去された辻井喬（堤清二）さんの「浪漫主義に憧れた浪漫主義者」という1981年のエッセーに膝を打つ。

彼の自然は、交響曲第8番の第2楽章が最もよくその特徴を現しているように「野人が田舎を夢見る」ものであった。
このことは、自然を確固とした外部の実在と考えられなくなった現代においてブルックナーが新しく想起されるもっとも大きな理由の一つであろう。我が国においても、現代の青年達は自然に自己を感情移入させ、そこに宗教的情緒に染まった神を見るという美意識に、ついていけない感性を持ってしまったのだ。
～音楽の手帖「ブルックナー」（青土社）P17-18

科学的実証主義に洗脳され、いわば信仰を失わざるを得なかった僕たちが、ブルックナーに憧れるのは、彼が純粋に神に奉仕しながら、実際には目に見えないものを追うというより、眼前の大自然そのものを愛したその姿勢に感応するからだと氏は言うのである。
とはいえ、自然や宇宙そのものが「神」なのである。古来、八百万の神を信じた日本人のDNAには自ずとそのことが刻まれる。おそらく僕たちがブルックナーを特別に愛好する理由はそういうところにもあるのだろうと思う。

こう考えてくる時ブルックナーの交響曲の序奏部分が、低いあるいはぼんやりした霧のような弦楽器のたゆたいの中に聞こえてくるのだ。その苦い不安のなかに煌めいているのは宗教的な幻想な虹であり、かつそれと対立する郷里の明るい風景でもあった。彼は浪漫主義に憧れた浪漫主義者であることによって現代の作曲家になったと言うことができるだろう。
～同上書P18

宗教的な虹と郷里の風景が同時に煌めくのは当然だ。なぜならその二つは同じものだから。
ギュンター・ヴァントの交響曲第8番を聴いて思った。

ブルックナー：交響曲第8番ハ短調（ハース版）
ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団（1993.12.5-7Live）

幾種もある彼の第8交響曲の中で群を抜くのは、手兵北ドイツ放送響との実況録音であるこの音盤であると僕は断言する。辻井さんの言う、まさに浪漫主義者になり切れなかった浪漫主義者ブルックナーの真髄を体現するかのような、武骨でありながら清楚で、あくまで自然体のブルックナーがここに在る。
後半2楽章の例えようもない深みが心に沁みる。
特に、フィナーレ、コーダのゆっくりと歩を進めた後の圧倒的大伽藍は他の何ものに代え難い魅力に溢れる。

それにしても、第8交響曲初演にまつわる作曲者周辺の手紙のやりとりが実に興味深い。

第1楽章の出だしの楽節は壮大だ、でもその展開には途方に暮れてしまう。
最終楽章に至っては、完全にお手上げだ。
どうすればいいんだろう。僕はこの言葉が僕たちのあの人に与える影響のことを考えると身ぶるいする想いだ。そんな手紙を書くことはぼくにはできない。
1887年9月30日付、ヨーゼフ・シャルク宛ヘルマン・レヴィの手紙
～同上書P43

弟子たちはスコアを見て愕然とし、師を気遣う想いでいっぱいだったことが、この戸惑いに満ちた手紙から容易に想像がつく。

君の言葉は、当然のことながらブルックナー教授に手ひどい打撃を与えた。彼はいまだに打ちしおれていて、立ち直れないでいる。恐れていた通りの事態だ。でもそれが、彼にもっと辛い失望を与えない為の最良の方法だったんだよ。遠からず落ち着きをとり戻し、君の忠告を考慮して作品に手を入れることだろう。
1887年10月18日付、ヘルマン・レヴィ宛ヨーゼフ・シャルクの手紙
～同上書P43

その後、翌年のブルックナーのレヴィ宛の手紙には次のようにある。

「8番」についてですが、少なくともこの件については、確かに自らの不明を恥じなければなりません。何て馬鹿なんでしょう。それはすでに全く違ったふうに見え始めています。
1888年2月27日付、ヘルマン・レヴィ宛のアントン・ブルックナーの手紙
～同上書P59

この自信のなさというか謙虚さ（あるいは自己肯定感の低さ）がブルックナーの「すべて」。
彼はやっぱり信仰心篤い人だったということ。その分、当然世渡りは下手・・・。

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