アバド指揮ルツェルン祝祭管の歌劇「フィデリオ」(2010.8Live)を聴いて思ふ

beethoven_fidelio_abbado_2010328人の話し声は、脳にとって、ただの音の集合ではない。脳での扱われ方は、話し声と他の音とでは大きく異なっている。通常の音は大部分が脳の右半球で処理されるのに対し、話し声は、主に左半球で処理される。
トム・スタッフォード&マット・ウェブ著/夏目大訳「マインド・ハックス―実験で知る脳と心のシステム」(オライリー・ジャパン)P185

リヒャルト・ワーグナーが人類の進化のために音楽と詩の合成を企図した舞台綜合芸術の重要性を謳ったことは正しいのかも。
しかも、女性の脳では、男性に比べ、この区別はやや曖昧になっているという。女性は全脳使いだということだ。ならば、女性の純愛が救済をもたらすとし、それを主題としたワーグナーの多くの楽劇こそが人間の全脳を刺激する最高の芸術であるということか?
ちなみに、そのワーグナーに最大の影響を与えたのは純粋器楽と歌の共生を試みたベートーヴェンの第9交響曲。そして、交響曲第9番の源泉は、音楽的には「合唱幻想曲」であり、思想的には「フィデリオ」(あるいは「レオノーレ」)である。

夫フロレスタンを救うために男装し、フィデリオと称するレオノーレ。
第2幕第3場レオノーレとフロレスタンの再会シーンの劇的な音楽は歌劇「フィデリオ」の最も感動的な場面であり、2人がいよいよひとつになる昂奮を音化、同時に誰しもの内に神が宿ることを示唆する絶対的箇所だ。

ああ、あなたは助かったわ、偉大な神よ!
ああ、俺は助かったのだ。大いなる神よ!
名作オペラブックス3「フィデリオ」(音楽之友社)P111

そして、ドン・フェルナンドの登場を示すファンファーレが響き、その後にいよいよフロレスタンとレオノーレによる圧倒的な二重唱が続く。

復讐の時の到来です。
あなたは救われるのです。
私は救われるのです。
愛が勇気と一緒になって
あなたを解放し、
私を解放することになります。
~同上書P113

ここのシーンを聴くにつけ僕は思う。
レオノーレは、その役割の如く(ユングの言う)始原存在であり終末存在でもある「両性具有的童児」を表しているのではないのかと。

注目すべきことには、宇宙生成神話の神々の多くはおそらく両性具有的である。両性具有的存在はまさしく、最も強く最も明白に対立している2つのものの結合を意味している。
カール・グスタフ・ユング著/林道義訳「元型論」(紀伊國屋書店)P199

両性具有的な原存在は文化が発達するにつれて人格統一の、つまり自己―この中では対立物の葛藤は治まっている―の、シンボルとなる。このようにして、この原存在は人間存在の自己実現のはるかな目標となる。というのも、それがはじめからすでに無意識的全体性の投影であったかあったからである。要するに人間の全体性は意識的人格と無意識的人格の結合によって成り立っている。
~同上書P202

「童児」はそれゆえ《新生児への再生》でもある。つまりそれは始原存在であるばかりでなく、終末存在でもある。始原存在は人間が生まれる以前に存在し、終末存在は人間の死後に存在する。
~同上書P205-206

つまり、レオノーレは神なのだと(どこにでもある夫婦の物語を通してベートーヴェンは誰の内にも神が宿ることを訴えたかったのかも)。
その神によって牢獄(現実世界)から解放されるフロレスタンの悟りの物語。
なるほど、そう解釈すると、第15番とフィナーレの間に慣習的に挿入される「レオノーレ序曲」が邪魔になる。

実際、「レオノーレ序曲」を省略し、一気にフィナーレまで突進するクラウディオ・アバドの演奏を聴いて、第14番四重唱「あいつは死ぬのだ!」から第15番二重唱「ああ、得も言われぬ喜び!」、そして大団円のフィナーレ「この日に祝福あれ・・・王様の恵み深き思し召しにより私は来たのだ・・・やさしき妻を持つ者は、我々の歓呼の声に合わせよ!」にかけての怒涛の流れは堂々たる光彩を放ち、聴く者の魂を鼓舞するだけのエネルギーに満ちることを知る。2010年、ルツェルン音楽祭でのこの壮絶劇的でありながら清廉で美しい「フィデリオ」は永遠である。

・ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」作品72
ニーナ・シュテンメ(ソプラノ、レオノーレ)
ヨナス・カウフマン(テノール、フロレスタン)
ファルク・シュトルックマン(バス・バリトン、ドン・ピツァロ)
ペーター・マッテイ(バリトン、ドン・フェルナンド)
クリストフ・フィッシェサー(バス、ロッコ)
レイチェル・ハルニッシュ(ソプラノ、マルツェリーネ)
クリストフ・シュテール(テノール、ヤキーノ)、ほか
アルノルト・シェーンベルク合唱団
クラウディオ・アバド指揮マーラー・チェンバー・オーケストラ&ルツェルン祝祭管弦楽団(2010.8.12&15Live)

レオノーレに神が宿ることは第1幕第9番のアリア「悪者よ、どこへ急ぐのだ?」でも垣間見える。そして、彼女の中に誘発される勇気の存在も。

希望よ来たれ、疲れはてた人々の最後の星を
消さないでおくれ。
そして私の目標をてらしておくれ。
この目標がどんなに遠く離れていても、
私は心の衝動についてゆきます。
私はよろめきません。
~同上書P79

さらに、続く第10番囚人たちの合唱「おお、何とうれしいことだ」のあまりの崇高さ・・・。

我々は神のすくいを
頼りとしよう。
希望がやさしく私にささやく。
我々は自由の身となり、やすらぎを見いだそう。

おお神よ、救いよ、何たるしあわせよ。
おお自由よ、自由よ、自由は戻ってくるのか。
~同上書P85

人は求めがあってこそ、内なる神を発現するということ。神聖なる「フィデリオ」に乾杯。

 

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